私は友愛を信じる。

  • J・G・バラード、逝去。小学生のときから好きだった、しかし決してよい読者と云うのではなく、折にふれてぽつぽつと読むだけだったが、しかしたぶん、私がじぶんでもきっちり意識できていないくらい、つまり殆どオブセッションのようになっている、ものすごく影響を受けた小説家だった。
  • 終日、寓居に引きこもって、書き物をしている。冒頭を、幾つも書いては消す、を繰り返している。夕方になって、「しま」が階段の下で「ぎゃおー」と啼いたら柚子が帰宅して、ふたりで焼肉を食べてから、苺を食べる。皿洗いをして、再び書き物をする。ラッヘンマンの『マッチ売りの少女』を流しながらもう一度書きはじめて、ようやく、冒頭が決まる。ありがとう、ヘルムート!と叫びたい気分だった(冒頭が書けたので、このまま流し続けると音楽のほうに意識を持っていかれて、続きが書けなくなることは間違いないので、慌ててCDを止めた。ラッヘンマンは、ワーグナーと同じぐらい耳を「引っぱる」からだ)。
  • 朝までうねうねとかけて、最後まで書き終える。取りあえず寝て、推敲することに決めたので、今から寝る。

(……)それぐらいのセンスのあるやつは、他にもいる、といわれれば、そうなのであるが、そんなほかのやつは関係ないのであって、これも、友愛である。ある人間とある人間が、友愛でもって結ばれ、そこに何かみみを傾け、目をみはるものがあれば、それは発信者でなく、受信者がその態度でもってそれを示すのが、友愛の響きあい(コレスポンダンス・オブ・フレイターニティ?)ではないのか。あとはおのおの、各自が自力で励めばよい。

  • 畏友MR君の日記から*1。そう、まさしくそうなのだ。「勝手に逃げろ/人生」とは、友愛そのものである。だから私は、「ある人間とある人間」以外の「そんなほかのやつ」にはきわめて冷たいが、やはり同時に、ひたすら友愛なるものを信じているし、それは同時に、歴史を生きる私たちにとって(そう、「そんなほかのやつ」らにとっても)、普遍性を持っていると信じている。MR君は、よく自身を「愛の人」ではないと規定する。しかし、彼もまた「愛の人」でないなら、私の考える愛など、何処にもないのである。