もどき(その五)

  • 原稿用紙15枚位。メモを作り、途中まで書いてほったらかしていたのを、メモにそのまま肉づけするかたちで、無理矢理しあげた。
  • タイトルは、「わたしたちの音楽をどうするか」。
  • 《我らが父なる》皇帝陛下の在位は愈々一〇〇年に及び、その弥栄と更なる繁栄を慶賀し祈念するための未曾有の大祝典を半年後の十一月に控え、帝都ルイニンブルクは、ひっそりと発熱していた。
  • 若い作曲家であるヨーゼフ・ヘルツェルの下宿を、内務局文化振興委員会帝室歌劇場保全部第三課の役人を名乗る男、ヘルムート・N**が現われ、即位百年祭のための新作オペラの作曲が依頼されたのは、ちょうど六月になり、ヨーゼフが取り組んでいた仕事――売れっ子の作曲家B**の新作オペレッタの編曲だったが、実際は編曲どころではなかった。B**が霊感から見離されたことは、帝都に六つある歌劇場の雀たちなら皆知っていたが、遂にこの頃ではヨーゼフのような腕利きの《職人》を仕事場に呼びつけて、メモの切れ端を渡すか、ピアノをちょっと弾くだけで、あとはすっかりお任せだった――が、終わったばかりのときだった。
  • 「十月までには仕上げていただきたいのです」と、シャツの衿が高すぎて、まるで頸を絞められた鶏のヘルムート・N**が話すのを、彼の薄い唇の上でよく動く灰色の髭をみつめながら、ヨーゼフは激しい歓喜と胸の鼓動を、目の前の役人に悟られることを怖れた。藝術家としての威厳を保たねばならないと考えたからだ。この二〇年、ご病気のため《我らが父なる》皇帝陛下は、臣民の前にお姿をみせられることはなかった。しかし百年祭では、帝室歌劇場で行われる祝賀オペラの公演をご観覧なされるため、宮殿からお出ましになられるとのことだったのだ!
  • ヨーゼフ・ヘルツェルはもう殆ど酔漢のようにふらふらと、その申し出を引き受けた。本当は、ヘルムート・N**の頸筋に抱きつきたいほどだった。
  • 「だがしかし、ですよ」と、ヨーゼフは堪りかねて訊ねた。「どうして私が選ばれたのでしょう?」
  • 「もちろんそれは、あなたの才能のためです。そして、もう一つはあなたの若さです。更に大切なのは、あなたが決してアナキストではないと云うことです」
  • 「もちろんです。私はアナキストではありません」
  • 「実は、あなたの前にお願いしていた方がいるのですが……そう、あのK**氏です。此処だけの話ですが、彼はアナキストだったのです。ええ、私たちも信じられませんでした。奴らは周到に隠れておるのです。しかし間違いなく、彼はアナキストだったのです。《我らの父なる》皇帝陛下に刃を向ける輩が、陛下の御代を寿ぐオペラを作るなど、決してあってはならんことですから」
  • おお、アナキスト! 無制限の自由を要求し、帝政と秩序安寧の破壊を画策する底なしの不信心者ども! 若くて聡明なヘルツェルは、なるほど、旧弊な音楽の破壊者を自任していた。だが、破壊とは彼にとって、断固、藝術の範囲に留められなければならないものだった。
  • ヨーゼフは、深刻な憂慮を眉間の皺に刻んで黙したヘルムート・N**に向けて、ふかく、ふかく肯いた。
  • 次の日には、台本とオペラ作曲の手附金――手の切れるような一万ブルーノ札が数百枚――が届けられ、ヨーゼフ・ヘルツェルは愈々、自身の本領であると自負している、「聴衆は親しみを感じながら、同時に、新しい藝術の啓示を得ることのできる真摯かつ崇高な音楽」の制作に取りかかった。
  • 大衆の俗耳を心地よく擽ることを第一とするB**の音楽を、ヨーゼフは心底から軽蔑していた。しかし、そのB**の代筆者として、すらすらと曲想が思い浮かび、B**よりもB**らしいオペレッタやワルツを手早く仕上げてしまうじぶんに、彼は憤慨し、悲嘆していた。それもこれも生活のためだった。しかし今やっとヨーゼフ・ヘルツェルは、些かの心配もなく、自身の作品に打ち込むことができた。
  • 最初の一週間、彼はひたすら台本を読み返しては詳細なメモを取り、傾斜のある大きな机の前の壁に、それらを、蝶を展翅しておく細いピンで、丁寧に止めていった。次の二週間は、五線が何段もある大きな紙を机に拡げて、忙しくペンを奔らせ、音を書き込んでいった。こんなときに限って、友人たちや愛人が頻繁に下宿を訪ねてきたが、ヘルムート・N**以外は誰も通さないように、家主に頼んでおいたので――百年祭のオペラの作曲家に選ばれたことは秘密で、しかし金は少し握らせた――彼はその仕事に打ち込むことができた。
  • 途中、台本の細かな訂正が七度と、大きな訂正が二度、ヘルムート・N**から持ち込まれた。特に、二度目の大きな訂正は、いちどは仕事を降りようと考えたほどだった。だが、あのB**が、ヨーゼフの仕事を救った。
  • 訂正を要求されて、まる二日、ヨーゼフは一切譜面に手をつけず、強か酒を呷って長椅子の上で伸びていた。三日目の朝、だれも通すなと頼んでおいたのに、家主が彼の部屋の扉を叩いた。「B**先生からお使いの方がきておられますよ」、と。家主は、彼女の間借人の家賃がB**からの仕事で賄われており、ヨーゼフ自身の作品が殆ど金になっていないことを、よく承知していた。ヨーゼフは、そういうことを彼の周りの人たちがちゃんと勘付いているということを、決して口には出さなかったがもちろん知っていて、そしていつも、ひどく侮辱されていると感じていたので、部屋を飛びだすと、階段の下で待っていたB**の秘書に向けて、その隣に満面の笑みを貼りつけた家主が立っているのもちゃんと確かめてから、あらんかぎりの大声で怒鳴りつけた。
  • 「もうおれはおれ自身の音楽しか、これからは決して書かないんだ! 今、大きな藝術の依頼に取り組んでいるのでね、今後はもう二度と、あんたの先生の甘ったるい軽歌劇の《編曲》なんぞ、絶対にやらない!」
  • B**の秘書と家主が、いったい何が起ったのか判らず、ぽかんとした顔をただ宙に浮かべているのを目に焼き付けてから、部屋の扉を激しい勢いで閉めた。大きな音が響き、階下のふたりが、いきなり大きな災難に見舞われた人のように、じっと息を詰めているのが感じられた。ヨーゼフ・ヘルツェルは扉の裏で、それを残さず味わいながら、会心の微笑みに、抑えきれず頬をすっかり緩ませていた。おお、これぞ真の藝術家の振るまいではないか! その後彼がいそいそと、譜面に向ったのは云うまでもない。
  • ヨーゼフ・ヘルツェルは勝利を収めた。七月の中頃には、愛人のオペラ歌手の夫がいきなりやってきて、「殺してやる」と、部屋の扉を拳銃の底で叩いたり、八月の上旬には水道管が破裂して部屋が水びたしになったりしたが、九月の半ばに、彼は遂にオペラを完成させた。あれ以来、彼と口をきかなくなった家主から電話を借りて、ヘルムート・N**の職場を呼びだした。二時間後、身支度を整えて待ち構えていたヨーゼフの部屋の扉を叩いたのは、黒い皮手袋の、帝国保安委員会の執行官たちだった。ヨーゼフ・ヘルツェルはその場で逮捕され、裁判の過程で、彼がアナキストの大陰謀団の幹部で、目前に迫った在位百年祭に際し、《我らが父なる》皇帝陛下の爆殺計画を進めていたことが明白になった。
  • すっかり罪を認めて悔い改めたヨーゼフが、罪の重さに応じて、執行から死に至るまでの経過をできうる限り引き延ばせるように特別な洞察と研究で開発された、《ペンギンとネズミの函》に坐って絶命しつつある頃、在位百年祭は賑やかに挙行された。だが、帝室歌劇場の貴賓席への《我らが父なる》皇帝陛下のお越しは、誠に恐縮なことであるが出し物の新作オペラが完成しなかったため、このたびも見送られることになった。