『キック・アス』をみる。

  • 洗濯物を取り込み、夕方からアルバイト。
  • そのまま三宮へ出て、ミント神戸のレイト・ショウで、マシュー・ヴォーンの『キック・アス』をみる。
  • ほんのちょっと長すぎると云う気がしたけれど、画面に映るあれこれのものは、きちんと作り込まれているのが気持ちが良い。例えば、ギャングたちの根城の、ネオン看板の色だとか。
  • 役者は皆な実に愉しそう。若い役者たちのキャスティングが巧くて、それぞれがきちんと「キャラ立ち」している。狂気の父親「ビッグ・ダディ」を演じるニコラス・ケイジは本領発揮で、めちゃくちゃ愉しそうだし、『シャーロック・ホームズ』、『ロビン・フッド』に続いて、マーク・ストロングの堂々たる悪役っぷりが痛快だった(今、私がいちばん好きな役者)。しかもギャングの親玉である彼は現代美術の愛好家で、部屋にはロスコやらウォーホル、ダミアン・ハーストなんかが飾ってあるのが可笑しい。
  • しかし、云うまでもなく役者たちのなかで最もめざましいのは、クロエ・グレース・モレッツの演じる「ヒット・ガール」で、大人たちを大変な手際のよさでザクザク!ドカドカ!と殺りまくる(飛び散る血飛沫!)登場シーンには、思わず快哉を叫ぶ。だか、それが重なるうち、私は、どうにも冷めてしまったのである。けっきょく、年端も行かぬ子供が派手な殺戮を繰りひろげているのをゲラゲラと笑ってみているのが、うっすらと気持ち悪くなってきたのだ。
  • もちろん、女の子だって拳と拳の会話がしたい!と云うのは判るのである。例えば、タランティーノの『デス・プルーフ』は、とても気持ちが良かった。しかし、あれに出てくる女たちは、幼女などでは決してなかった。
  • ところで、この「ヒット・ガール」は金髪のツインテールで、サプレッサ付きのUSPなんぞ持っているのだが*1、私がすぐ思い出したのは、『ガンスリンガー・ガール』のトリエラである*2。子供を道具にすることで、大人がじぶんの正義を貫くと云うのは、どちらも共通している。そして、私がこの映画に乗ることに、ちょっと腰が引けたのは、たぶん、このあたりの違和感からなのだ。これだけ暴力の技法に習熟していれば、「ヒット・ガール」は今後、理不尽な暴力に蹂躙されることはないだろうから、「ビッグ・ダディ」から施された教育もよしとするべきだと、果たして本当に云えるのか?
  • 「ビッグ・ダディ」がきわめて無惨な死を遂げるのは、やはり「罰」なのであると、私は思うのだ。
  • KY君が以前、日本のアニメや漫画の「気持ち悪さ」と、それらが成育してきた文脈を消毒して、無害な輸出品に変えてしまうことへの違和を語っていたが、「気持ち悪さ」だけは全然消毒などされておらず、寧ろ、それこそが世界へ届けられているのではないか?(だからダメだ、と云うのではなくて、そういうのこそが気持ちいいんだという感覚が、戦後日本の文化と云う特殊な文脈から切れて、平準化しているのではないか、と。)
  • 電車のなかでヘーゲルの『精神現象学』を読みながら(共同意識をめぐる議論、めちゃくちゃ面白い)、帰路。
  • 帰宅して、「しま」のかりかりに鰹節を少し振りかけてやり、それから私も、おでんの残りを温めて食べる。大根も出汁が染み込んで、すっかり柔らかく、箸の先でふわっと切れるくらいになっていて、とても旨い。
  • 「しま」が私の蒲団のなかで先に眠っていた。その隣にちいさく滑り込んで、眠る。