『慈しみの女神たち』を読み終える。

  • 夕方、梅田のヨドバシカメラまで出て、最近ひやひやしながら使っていた携帯電話をiPhoneに替える。
  • ジョナサン・リテルの『慈しみの女神たち』を読了する。見失って久しく、しかしそれをやはり少し残念であるとも感じていた、(現代の)小説というジャンルへの信頼と、ささやかな愛情を、このとても見事な小説を読むことで、ようやく取り戻すことができたと、しみじみと感じている。
  • この小説が厖大なページを費やして微に入り細を穿ち描きだすのは、ナチズムの「社会」とその諸相であり、それに熱狂的に付き従うものやら、そういうものだからと肩を竦めながらやり過そうとするものなどが、実在の人物を含め、夥しく登場する。「社会」やらシステムなりの在りようを丁寧に描くだけなら、私がすっかり倦んでしまった現代の小説にも少なくない。しかし、この『慈しみの女神たち』が図抜けているのは、無数の資料を読み込んだであろう成果として「社会」が稠密に描かれるのが、それ自体が目的なのではまったくなくて、針先の頂に際どいバランスで乗っかっている「社会」(云うまでもなく彼らの「社会」の続きとして私たちのそれはある)そのものが立っている「底」へと降りて、その何ものかを触知するためであるからだ。云い換えるなら、徹底したリアリズムで「社会」が描かれるのは、それを超える「世界」(または「社会」の「底」)に触れんがための跳躍の踏み台としてなのである。
  • だから、「世界」に触れるそのためには、この書き手は、どんな荒唐無稽(「世界」を触知しようとしているのに、ずっと「社会」に踏みとどまっていられることができるだろうか?)でさえも、堂々と引き受ける。私がこの小説を読んで(現代の)小説への信頼を取り戻すことができたというのは、まさに、そういう豪胆な企みと、荒唐無稽を選び取る勇気に、この小説が満ち充ちているからであり、また、畢竟、私が小説に求めているのは、社会勉強などではまるでなくて、「世界」の膚に触れることに他ならないからだ。
  • 『慈しみの女神たち』のデザートに、モーリス・ブランショの小説『望みのときに』を読み始める。