フィンチャーの「インナー・シティ・ブルース」

  • 夕方、柚子と待ち合わせて三宮の国際会館で、デイヴィッド・フィンチャーの新作『ゾディアック』*1をやっと観る。オープニングから、びりびりと傑作の予感が。それから2時間37分、それは少しも裏切られることなく、ダレ場もなく、エンディングまで進んでゆく。
  • ゾディアックと名乗る殺人鬼と、それを追うものたちの群像劇であり、1969年から始まる猟奇殺人事件を通した、約三十年に渉るアメリカのアンダーグラウンドカウンターカルチャーの歴史を描いた映画でもある。ブラット・ピットが出てこないと良い映画が撮れないなどと云われていたデイヴィッド・フィンチャーが、遂に根性を見せた傑作。これまでの彼の映画の頂点であり、次のステージに達している映画であり、ついでに云えばあの『インランド・エンパイア』さえ押さえて、私の今年の暫定ベスト・ワン。
  • 『セヴン』は、私たち易々と酷い事件に巻き込まれる世界を描いた映画だった。『ゾディアック』はその後を描く。つまり、既に世界が、そのようにぽっかりと深く暗い穴があちこちに開いているものであることを知ってしまった私たちが、だがその外部へは決して出ることのできない世界と向き合い、如何に生きてゆくかを描いている映画だった。
  • さて、ゾディアックが、メディアへ積極的にメッセージを送り、イメージを増殖させてゆく、いわゆる劇場型の殺人鬼であったことから、警察だけでなく、新聞社の記者たちもまたゾディアックを追う。
  • 映画の前面に登場する記者はふたり。ロバート・ダウニーJr.の演じるポール・エイヴリーと、ジェイク・ギレンホールの演じるロバート・グレイスミスである。ポールは彼の書いた記事の所為でゾディアックから殺害予告を受け、少しずつ精神を擦り減らす。グレイスミスは、イラストレータ、漫画家である。彼はゾディアック事件の解明にのめり込んでゆくが、われわれが良く知るすっぽりと黒い頭巾を被り、胸には丸に十字のサインがあるゾディアックの奇怪な似顔絵は、グレイスミスが描いたものだ。彼もまた、ゾディアックを増殖させたひとりなのだ。
  • グレイスミスはゾディアックを追い続ける。担当の刑事ですら、もう諦めろと云い、妻は生活を顧みず、過去の資料をひっくり返し、読み返し、分析し、犯人探しに没頭する彼を棄てる。「どうしてそんなにまでして?」と問う妻に、彼は答える。「こいつが犯人だと確信できる奴の前に立ち、その瞳を深々と覗き込んでやりたいんだ」と。
  • 未解決の殺人事件とは、つまり、死者を葬ることができないと云うことである。喪の作業がいつまでも完了しないと云うことである。その終わりのなさに耐え、死者の声を聴き続けること。それがこの映画の運動であり、大袈裟でもなんでもなく、われわれの時代に有効な、ギリギリの倫理なのではないか?
  • 映画の中で、マーヴィン・ゲイの「インナー・シティ・ブルース」が流れる。

The way they do my life / Make me wanna holler / The way they do my life / This ain’t livin',This ain’tlivin', / No,no baby,this ain’tlivin’

  • そう云えば、この名曲が収められたアルバムのジャケットで、マーヴィン・ゲイは傘も差さずに雨に打たれている。ふと、いつまでも降り止まない雨のなかで殺人が起き、世界が破滅に蝕まれていった『セヴン』を想起してしまう。