『硫黄島からの手紙』を観る

  • 昼過ぎにのそのそと起きる。雨。ちょっと仕事を片づけて、駅前に出ていた露店の古本屋を覗いたりしてから、三宮に出る。六時過ぎからミント神戸クリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙*1を観るつもりだったが、U君、某仕事の連絡が重なって到着遅れ、九時からに変更。その間、タワーレコードジュンク堂を巡り、買いそびれていた『ふたつのスピカ』の新刊を買ったりして時間を潰し、センター街のマクドナルドで夕食を摂り、あたふたと映画館へ。
  • 映画館を出て、U君とふたりで歎息する。「なんでこれが今の日本映画として撮れないんだろうねぇ!?」と。
  • 画面は、殆どモノクロームに近いような陰影の深い色彩で、硫黄島で米軍を迎え撃つ日本軍の姿を、些かの無駄もなく、描いてゆく。大宮で嫁さんとふたりパン屋を営んでいた若い兵隊さん(二宮和也。ちゃんと撮れば今の日本人の顔でも充分「映画の顔」になることがよく判る)から、精神主義に凝り固まって肉弾突撃を呼号し、兵士たちからひそひそと文句を垂れられ、逆上して独りで地雷を身体中に巻きつけて戦場へと飛び出してゆく海軍将校(中村獅童、良い)、何処までも男前のバロン西伊原剛志)に、腰に美しいコルト・ガヴァメントM1911A1を下げている栗林中将*2(これは渡辺謙の最高傑作ではないか?)と云うふたりの知米派まで、どのキャラクタも実に丁寧に描かれていて、141分の上映時間が、些かも長くない。陸軍と海軍の根深い対立から、墳進砲まで描写されていては、もうお見事と云うしかない。まったく見事な戦争映画。
  • 岡本喜八の『沖縄決戦』が最後だろうか、ずっと日本映画が撮れなかった真っ当な日本の戦争映画を、何とアメリカ映画が実現してみせたわけだ。これを日本映画界の怠慢と云わずして、何と云えば良いのか*3。おすぎがこの映画を評して『週刊文春』で、「普通の日本映画です」と書きとばして暢気に星五つのうち三つを付けていたが、その無責任さに、大いに呆れる。おすぎの映画評なんかで頭に血が昇る私が馬鹿なのかも知れないが、こんな「普通の日本映画」を、今、何処へ行ったら観られると云うんだ! 例えば、東宝は嘗て『日本のいちばん長い日』や『沖縄決戦』などの優れた戦争映画を制作したにも関わらず、今ではもう『ローレライ』みたいなオモチャじみた映画でお茶を濁しているだけじゃないか。昭和天皇の映画すら、僕らは最初にじぶんで撮ることができなかった。私たちは、何をしているのだろう!?*4

*1:http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/

*2:これは創作だろう。だが、これぞ虚構の強さと云うべき、見事な創作だと思う。兎にも角にも恰好良いし、何より栗林中将と云う異形のキャラクタを、このたったひとつの小道具が、実に雄弁に描き出すではないか! 立場を変えればこれは、米軍の司令官が日本人と深い友誼を結び、武士道を奉じて、日本の友から贈られた軍刀硫黄島の戦場に携えてきているのと同じなのだから。ちなみに日本軍の将校で、例えば南部十四年式などとは異なる、自前の拳銃を所持していた者も多数いたのは事実である。

*3:この映画の日本の兵隊たちが、結局アメリカ人の目から見た表現でしかないと云う論難がずいぶん多いようである。私は決してそのような感想は持たなかったが、しかし、もしそうだとしても、そんなものは当たり前ではないだろうか? これはアメリカ映画なのだから。まさか私たちは、じぶんたちが戦った戦争の相の深い掘り下げや、その表現まで、アメリカ人に丸投げするつもりなのか? 馬鹿も休み休みおっしゃいな。と、心底から思う。

*4:勿論、優れた日本映画は撮られ続けている。例えば、緒方明などが戦争映画を撮ったら、素晴らしいものをみせてくれるような気がする。しかし、そういう監督たちが腕を揮うことが容易い環境を、日本映画界は作り得ているか? 或いは巨匠や名匠と呼ばれる古い監督たちに、日本映画界はちゃんと映画を撮らせているか? TV局のコンテンツやら、劇場版と看板を付けただけのドラマスペシャルに過ぎない、陰影もクソもないぺらっぺらの映像の自称「映画」は、もう結構だ。