その男、気鬱につき

  • 朝はU君と三宮で会う約束をしていたが、どうにも昨晩から気鬱で、キャンセルしてもらう。
  • 部屋の片づけをしながら、『ふたつのスピカ』の最新刊、武富健治の短篇集『掃除当番』(「8月31日」に於ける鏡の前の少女の絵は、殆ど宗教画のようで、経血の匂いの混じったアドゥレセンスの強烈さに圧倒されるが、私は「シャイ子と本の虫」と「まんぼう」が好きだった。小川蘇美ファンとしては「ポケットにナイフ」も棄て難い。読むべし)、『おおきく振りかぶって』の最新刊を読む。
  • 片づけをしながらパラパラと捲った本のなかから、ぱっと目に入った箇所を引用してみる。
  • 桶谷秀昭『凝視と彷徨』(上巻)所収「正岡子規のたたかい」より。

精神の自由はかならずしも高尚優美な表現をとるとは限らない。どんな人間もその時代を越えて生きることはできない。時代が悪ければ、自由な精神を内に潜勢する人間も、無無無の奇矯な言辞を吐いて生涯を終るにすぎぬかもしれない。あるいは無無無の行為をなしてむなしく朽ち果てるかもしれない。
目標を捨てて生きることは、ついに無無無であるかも知れないが、人生をして美しく価値あらしめる精神も、この苦痛からしか生まれないと思う。

  • 樋口尚人『大島渚のすべて』から、『儀式』*1論より。

大島が戦後民主主義の挫折をトラウマとして戦後四半世紀を回顧する『儀式』を撮ったように、ひと世代上の三島はその四半世紀を、逆に軍国少年の挫折を抱えた満州男として過ごし、その絶望の最終表現において遂に輝道の側へ飛んだのではなかろうか。それからまた三十年近くを経て、こうした輝道的なる表現は江藤淳によって反復されたが、この時に至っては三島的な衝撃は走らず、江藤淳はすぐさま愛妻に殉ずる美談の人になった。この違いは、いったい何であろうか。かつてよりもはるかに多くの人びとが、満州男のように死にたい気持ちで生かされているということだろうか。

  • この頃、連絡がなく気になっていた、I君の携帯に電話する。元気そうで何よりだった。本当に久しぶりに、何だかんだと一時間半ほど駄弁る。彼とは学生の頃、四時間も五時間も長電話したものだ。震災のときも、その数十分前まで話していたのだった。
  • 夜、某氏のことでK嬢から携帯にメールあり。驚愕。あちこちへ連絡を飛ばす。その後、安堵の連絡をF大兄から貰い、皿洗いと風呂掃除。