目玉の歩き方

  • 吉田秀和の『マネの肖像』を読了。小さくて軽やかな本だが、非常に充実している。
  • この本で、吉田はどういうふうに、絵を見ているか。

マネは何を描きたかったのか。マネはどういう絵を描こうと思ったのか。
この二つは同じようにみえるが、実は、同じではない。簡単にいっておけば、前者は制作の目標で、後者はそこにいたる手段だ。そうして、私が「絵を見るとき」、好きなのは、後者にできるだけ忠実に即して歩いていって、前者にゆくことで、できることなら、目標までゆきつきたいのだが、途中で道がわからなくなっても仕方がない。私の見る能力、歩く力がたりないのだ。私としては、まず、目標を----たとえば、画家の生きた道とか性格とか、あるいは手紙の一部とか、友人にもらしたちょっとした言葉とか、とにかく、「作品以外」のものを手がかりにして(このことを、「作品を理解すること」ととりちがえている人もたくさんいるわけだが)、そこから、逆に、絵に戻って、「だから、ここはこう描いてあり、あすこにはこういうものが描きこんである」と解釈しながら絵を見るという行為は、あんまりやりたくないのである。それに、私の考えでは、「絵を見る」のは、何でもいいから、目的地につけばいいというのではなく、ある歩き方をしなければ見えてこないものもあり、それは制作する人にとってもそうだったのだ。つまり、制作者は、歩きながら、いろんなものを発明する。そうして、私たち、見るものの側からいうと、どういう歩き方をするかによって、画家の制作中の発明を、「発見する」ことができたり、できなかったりするのである。その発見のときに味わうよろこびは、目標に達したときのそれに、優るとも劣らない。途上での画家の「発明」が豊かで「内容」があるものであるほど、私たちのよろこびもそれに準ずるわけだし、そういう絵こそ「内容の豊かな」、価値の高い作品なのである。

  • さらに引いてみよう。マネの「ジョージ・ムーアの肖像」*1を評して、吉田は次のような文を書く。

この絵で不思議なのは、画面の背景が同じ灰色でも、顔をはさんで、右のほうが左にくらべてずっと濃い暗灰色に塗られているのに、人物の着ている黒い服では、右半分にくらべて、左半分のほうが暗い、より黒い翳をもって塗られているのである。
つまり、絵に向かって右上から左下にかけて、斜めに、より暗く、左上から右下にかけての斜めはより淡く、明るい。だが、顔は、画面の右側のほうに上から----言葉をかえれば、頭と額にかけて----より強く光りを受けているのである。では、現実には、どこから光りが射しているのか?
ここで、私たちは、認めなければならない。画家は、ローカル・カラー、つまり局部局部の特有の色と明るさを再現することよりも、画面全体のなかでの、色調の配分、配置を構造的に考量して、色をおいているということを。

  • 去年の暮れから今年の頭まで行われていたMoMAの「Manet and the Execution of Maximilian」*2は、つくづく見たかった。マネの絵のなかでは「メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑」の連作が、最も私を惹きつける。
  • 西崎憲の訳した『エドガー・アラン・ポー短篇集』を読み始める。