『レンブラントの夜警』を観る。

  • 早起きをして、いよいよ自動車学校に真面目に通い始める。機械を使った模擬をふたコマ、学科をひとコマ。
  • 学校の帰りに、今日は「シネカノン神戸」が千円の日なので、ピーター・グリーナウェイの『レンブラントの夜警』*1を観る。
  • 『夜警』*2を描いた頃のレンブラントに焦点を合わせ、彼と周囲の女たち、男たちの姿を捉える映画だ。そして、恐ろしく充実している映画だった。開巻からすぐ、移動式の舞台のような寝台が画面の中央に据えられているからと云って、映画の最後で登場人物のひとりがレンブラントの絵画と演劇に就いて語るからと云って、この映画を演劇を巡る映画だなどと早合点してはいけない。この映画は、映画を巡る映画であり、謂わば「グリーナウェイの映画史」だ。
  • つまり、現代の映画はレンブラントの絵画から始まったのだと云う説を、それを評論ではなく、映画でしかできない表現手段を用いて、映画として展開している映画なのだ。或いは、資本主義とはどのような怪物かを、やはり起源に立ち返ることで探る映画だと云ってもいい。17世紀のオランダには、現代の資本主義の総てが既に存在していたことを忘れてはならない。グリーナウェイは映画の起源に遡ることで、映画を再び、新しいものに仕立て直そうとしている。
  • 特に、完成した『夜警』の画面と、画面とそっくり同じ恰好をした絵のモデルたちを対峙させるシーンは、ちょっとスゴイ。絵画とモデルたちは、鏡像のようなと云ってもよい、互いに向き合って酷似するイメージだが、それぞれにまったく違うサウンド(ドラムの音、銃声、罵声、怒声、困惑のざわめき、等々)をミックスすることで、グリーナウェイは、絵画でも演劇でもなく、映画を駆動させる。音と映像の結びつきを、すっかり自明のこととしている私たちに、それは、或る種の驚きを、したたかに喰らわせる。
  • 成るほど、字幕には聞き慣れない名前、膨大な引用が犇めいている。それらが総て判ったかと云えば私だってそんなの無理だ。しかし、そんなことはどうだっていい。どうしても気になるなら、登場人物を丁寧に解説してくれているパンフレットを先に買って、該当のページを読んで頭に叩き込んでおけばいい。しかし、この映画の蜜は、音と映像の激突、光線の妙、女たちのたわわな乳房、男の緩んだ白い尻、豪奢なドレスの襞、屋根の上の望遠鏡、レンブラントと妻たちの性交の体位、エトセトラ、エトセトラ……を、丹念に眺めることにこそある。
  • 映画の歴史とは、私たちが映画を見つめてきた歴史のことだけではない。映画が私たちを見つめてきた歴史でもあるのだ。グリーナウェイは、そのことをちゃんと判っている映画作家のひとりだ。
  • 真夜中、スピルバーグの『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のDVDを、少しだけチェックするつもりが、結局、最後まで見てしまう。アメリカで最も成功した映画作家のひとりだろうスピルバーグだが、しかし、このごろの彼の作る映画は、まるで亡命者のそれだ。この映画を含め、近年の彼の映画に如実に現われているのは、帰るべき故郷は、常に喪失され続けていると云うことだ。もちろん、ちょっとビターなコメディ映画としても、本当によくできている。