古本の匂いに落ち着く。。。。

映画が、演劇および文学のごとく「である」「でない」の説明の繋辞(コプラ)をもっていないことは、この「である」「でない」の判断を、大衆の意欲、歴史的主体性に手渡すことになるのである。多数の場所に流れている同一の今を、閃光のごとく貫くものは、万人の中にある歴史的な願望である。歴史的主体性である。繋辞のないカット、それは進行を止めた歴史の瞬間である。前のめった歴史である、多くの前のめった歴史的瞬間を、一筋に貫くものは、原始時代より、歴史の未来にまでも、一もって貫いている人間の歴史的嘆息である。「この人間生活がはたして正しく導かれうるのか、あるいはついに正しくは導かれないのか」この実践の苦悩のはてに面する切断の空間、深淵が、暗黒が、映画のカットの周囲を取り巻いている。この深淵に向かって、深く嘯き、殷々たる反響を測るがごときカットを、私たちはいかに待ち望んでいることか。「今」「ここに」大衆と共に、歴史を嗣ぎつつあるという満ちたりたる感激の中に立ちつくすがごときカットに、私たちはいかに永く飢えていることか。

  • 神戸まで出て、古本屋をぶらぶら。MT君と電話。シャリーノはなかなか独特だねぇ、と云うことと、演劇の「声」に就いて、あれこれと。仕事が終わった柚子と元町で持ち合わせて、久しぶりに「味香園」へ。旨い、旨い。柚子と話をする。