『ぐるりのこと。』、『神様のパズル』、『クリスタル・スカルの王国』を観る

  • 映画が千円の日なので、最近の私にしてはずいぶん早起きして、橋口亮輔の『ぐるりのこと。』*1を見に、元町のシネ・リーブル神戸に行く。劇場にはオバサマたちがギッチリ。彼女たちはリリー・フランキーのファンなのだろうか? 
  • 平成の犯罪史を軸に、或る夫婦の姿を描く映画だと聞いていて、事実それは間違っていないのだが、やはり結局そう云うような括りですっきりするような映画では全然なくて、だからその所為で、最初の間はちょっと、映画との距離が測れず、おろおろしながら画面を注視していた。人間と人間のつき合いがそうであるように、映画や小説や絵とつき合うときも、それとどう云う距離とか態度で向き合うか、と云うのは、とても肝要なことで、それらは総て人間が作ったものなのだから、そのあたりのことが反映されてしまうのは、当たり前と云えば当たり前なのかも知れない。しかし、やがて画面を見つめているうちに、この映画と私はどう接すればよいかが、徐々に判ってきて、映画が終わろうとするあたりから、エンドクレジットがすっかり流れ終わっても、ボロボロボロボロ涙が出てきて止まらなかった。
  • 人間は空っぽで、だからこそ、どんな黒々としたものも、どんな崇高なものも詰め込み得てしまう。そして、水が水を飲むことがないように、畢竟、人間に人間は救えない。だから、この映画が描いているのは、ひとつ屋根の下で夫婦と呼ばれる人間が一緒に暮らすことの面倒と幸福である以前に、あらゆる人間の根底には決して癒せない孤独があると云うことで、だから、人、人、人……と、何処まで重ねて行っても、絶対に人はひとつにはなれないと云うことなのだ。つまり、この映画は何よりもまず、絶対的な個の孤独とキチンと向き合えているからこそ、ふたりで暮らすことの、勁さと美しさが描けているのだ。これはだから、夫婦の映画ではなく、孤独をめぐる映画なのだ。
  • 昨日の夜中読んでいた吉田健一から一文を何となく抜いておく。

一組の男女が一緒になつて二人を中心の生活に入るといふことは、その動機が何だらうと、叉そこ以外の場所で銘々がどういふ行動を取らうと、家庭では二人の、どうせひどく食い違つてゐるに決つてゐる性格の縺れや噛み合いに基いて、二人に特有の世界を作り、そこに住むといふことなのである。(……)その組み合せがこの世に二つとないものであることは多く説明するまでもない。

  • 妻を演じる木村多江がとても良かったのだが、『ハッシュ!』に続いて登場する片岡礼子との相貌の相似に、彼女たちの演じる役柄と相俟って、ひどく胸を締め付けられた。リリー・フランキーは声がいい。脇を固める俳優たちも見事だった。終わってから知ったのだが、140分もあったとはまるで思わなかった。
  • そのまま三宮シネフェニックスに移動して、三池崇史の『神様のパズル』*2を観る。
  • ハタチにもなっていない男と女が主人公だが、だからと云って愛だの恋だのメソメソ&ベチャベチャしたものではなく、ふたりを結びつけるのが理論物理と音楽だと云うのがいい。しかも彼氏彼女の間に流れているのは、やっぱり恋愛感情ではなく寧ろ極めて真っ当な友情なのだ。
  • 谷村美月の演じる滅法可愛いヒロインは、ノーベル賞級にずば抜けてお勉強のできる女の子で、日々じぶんの存在に悶々と悩んでいるのだが、だからと云って引きこもってるウジウジやってるだけじゃなくて、結局、ものすごくアクティヴなのがいい。市原隼人の演じる主人公だって寿司屋のバイトをしながら音痴のロックンローラーで、やはり市原が演じる優等生なのにドロップアウトしてインドを流離い「ゼロ」の観念と音楽に救われる双子の弟も、どちらも兎に角ズンズン進んでいくのは気持ちがいい。また、私はメガストラクチャー好きなので、「むげん」には大変萌えた。もう少し摘んでもいいとは思うが、現代の日本の青春映画としては充分に満足できる、かなりいい出来だった。