- 昼過ぎ、喩えではなく拙宅がぶるぶる揺れるほどの豪雨に驚いて目を醒まし、慌てて窓を閉める。ちょっと怖いと思うほどの雨がずいぶん長く続いた。
- MR君からクリスチャン・フェネスと坂本龍一の『sala santa cecilia』を聴かせて貰う。これは素晴らしい。これだけ意慾的なライヴができているのに、どうしてアルバム『cendre』はあんなに駄目だったのだ。
- 夕方、雨が止み、空が明るくなったので、自転車で図書館に。その途中、公園に植えられた、ちんまりとした灌木の一本一本の根方に、葉叢を傘にして、猫が一匹ずつ難しい顔をして蹲って、雨宿りをしているのをみた。
- ちょっとした用事で必要な本を一冊と、まったく無関係な本を四冊を借り出す。後者の一冊、近藤譲の『線の音楽』の冒頭を少し読んだのだが、これが滅法面白い。
聴こえない音を夢見ることはできても、聴こえない音で出来た音楽を見付けることはできない。(……)勿論、一度この作品(引用者註:ジョン・ケージの『四分三十三秒』)の意図を知ってしまえば、これを再び聴く(鑑賞する)意味はない。だから、この作品は「音」と「聴くという行為」とを扱いながらも、「聴かれること」を目差していない、といえるだろう。しかしこれは、あくまで「聴かれることを目差していない音楽」なのであって、「聴こえない音で出来た音楽」ではない。まったく無音であるような種類の「聴かれることを目差してない音楽」は、聴こえないという点で「聴こえない音で出来た音楽」に似ているが、このふたつの音楽の間には基本的な違いがある。そればかりか、「聴こえない+聴かれることを目差していない音楽」は存在可能なものの、「聴こえない音で出来た音楽」は(……)不可能な存在である。