猫にインタヴュー

  • 昼前に起きて、柚子がホットケーキを焼いてくれたのを食べる。美味。
  • 私がいちばん油断する瞬間のひとつは、玄関を開けて、郵便受けに古本屋からきたらしい封筒が入っているのをみつけたときで、昼過ぎ、柚子に頼まれて、近所の牛乳屋の前の自販機で、紙パックの牛乳を買うために出かけようとして扉を開けると、郵便受けの蓋がぱっくり開いている。朝の新聞もまだ出していなかったが、その上に封筒がふたつも乗っている。うへぇと喜んだ瞬間、奥の部屋で寝ていたはずの「しま」が、ぱっと外に飛び出した。いつもはそれでも、ポーチの脇の植木鉢のところまでしかいかないが、きょうは彼女も何か勢いづいていたのか、其処を越えてしまった。すると私もそれに吃驚して、猫が外に出たときは絶対に大声を出してはいけない、猫のほうも吃驚して、めちゃくちゃな行動を取るから、と云うのは知っていたのだが、思わず「あっ!」と大声を出してしまった。それでやっぱり、敏感な「しま」は、すっかり恐慌して、そのまま脱兎の如く走り出し、家の角を曲がって、隣家との間を隔てる、狭い庭のほうへと駆け出した。私は、これ以上大声を出すと、ほんとうに何処に行ってしまうか判らないので、つとめて声に平静さを装って、「しま」の名前を呼びながら、あとを追う。すると、勝手口の前で、些か興奮したようすで坐っていたのを、捕まえる。ほっとする。しかし、ほんとうに吃驚した。
  • 「しま」を柚子に預け、牛乳を買って帰り、届いていた郵便を開けると、先日、竹中郁と親交の深かった一柳信二のことで葉書で問い合わせをした安水稔和氏から、私が読みたかった安水氏と杉山平一氏の対談「詩人たち 竹中郁の親しい仲間」が再録されているご著書をお送りいただいていた。ありがとうございます!
  • わざわざ該当の頁に付箋と、お手紙を挟んでくださっていたのだが、そのお手紙のなかにある私の名前の漢字の「、」が欠けている。よく書き忘れるひとが多いので、それほど気にならなかったのだが、いきなり「アッ!」と気づいた。私は先日、安水氏に葉書を出したとき、安永稔和氏と書いて、出したに違いない。お名前を書き間違えて、謂わば、「、」をひとつ多く書いていたのである。失礼きわまりなく、顔が真っ赤になると同時に、安水氏の何とディーセントなことだろうと、驚く。

風自体は形として捕まえることが出来ない。だが言葉でなら摑むことが出来る。言葉で摑むことによって私たちは、うん、そうだと感じ取ることが出来るんですね。(……)詩は結局私たちが生きている証みたいなものです。詩人は生きて言葉を書きつける。読者はそれを読んで今生きているということを確かめる。それが詩だと思うんです。私たちが生きているから言葉があるんだ、詩があるんだということ。(講演「竹中郁の詩の世界」より)

  • 「しま」と柚子が、並んですぅすぅ眠っておる。