• きのうの続き。「批評は動員ではない」ということから、マルキシズムの美学に於ける、エンゲルスレーニンの矛盾を想起している。このことを私に教えてくれたのは、ジョージ・スタイナーの『言語と沈黙』(下巻)に収められた「マルクス主義と文学批評家」である。
  • ここでスタイナーはまず、エンゲルスの、理想的な文学とはどんなものかを語る二通の手紙を引いている。「ぼくの考えでは〈傾向〉は、明らさまに示されずに、作中の場面と筋そのものから生れてこなければなりません。そして作者は、自分の描く社会的葛藤の未来の歴史的解決を読者の手に与える必要はありません。」「作者の意見が隠されていればいるほど、藝術作品にはいっそういいのです。」
  • 対してレーニンは、「文学は党文学にならねばならない」と主張している。「文学はプロレタリアートの一般政治目的の一部にならねばならない。単一の社会民主主義的メカニズムの〈車輪とネジ〉にならねばならない」と。
  • このエンゲルスレーニンの主張をスタイナーは、「参加抜きの誠実」と「全面的党派性」という簡潔な言葉で纏めているが、「批評は動員ではない」という言明は、「誠実」を訴えているだけでない。文学や演劇を制作することに役に立たないものは無駄であると、批評なんか私たちの作品のぶら下がりであると、無邪気に云ってのける人たちの抱え込んでいる、「全面的党派性」の傾向を暴露する「批評」でもあるのだ。