• 仕事を終えて元町の古本屋からぶらぶらしはじめ、センター街のジュンク堂を覗いて帰宅する。
  • 笹山敬輔の『幻の近代アイドル史』を読み終える。すごく面白かった。最終章のタイトルがSKE48の曲に因んでいるということも、もちろん素晴らしいのだが、それはさて措き、この本は、今すぐ読まれることを非常に強く意識して書かれているが、しかし此処で扱われていることは、明治の昔からずっと私たちが、今も何も変わっていないということである。女義太夫にドハマリしたドースル連から、じぶんの推しが干されになったため「運営推し」を激しく糾弾したヅカヲタ、昭和初期の新宿ムーランルージュの明日待子のヲタたち(彼らは戦地に赴く前に劇場へやってきて、「天皇陛下バンザイ!」ならぬ「明日待子バンザイ!」とやったのである)など、近代日本のドルヲタの群像を活写しており、それはサイリウムをぶんぶんやりながら推しメンの愛称やコールを絶叫する私やあなたたちと彼らが、何ら異なるところはないということを突きつける。「うわ、此処に俺がいる……」というようなエピソード満載で、苦笑しつつ爆笑しつつしながらでなければ読めないのだが、そうするうちに、ふと、気になってくる。
  • この本のタイトルにある「幻」は、「近代アイドル」ではなく、「近代」そのものにかかっているのではないか。御一新に始まり大東亜戦争の敗北に到る私たちの「近代日本」は、単なる時代区分の謂いでしかなく、それは「近代」ではなかったのではないか。そもそも近代とは、一挙になるものではなく永遠に更新され続ける批判の運動のことを云うのであるとするなら、なおさら、芯のところでは何ら変化を被っていない私たちは、明治から今までずっと、「近代」とは異なる、何か別の時代を生きてきたのではないか……という疑義である。
  • もし、このように理解されたら全く心外なので慌てて記しておくが、アイドルみたいなくだらないものにハマってしまうから日本人は「近代」化されていない、などというのではない。そうではない。当然、美談ばかりではないが、そんなつまらないちっぽけな藝能が、私たちの生をどれだけ助けてくれたか、この本の多くの頁にそのことが記されており、先日、ストレスの解消法うんぬんというような話を柚子としていたとき、あっけらかんと、「あなたはSKEをみることでしょ」と云われ、あとでじっくり考えるとなるほどそうかも知れないと思い至った私自身の実感でもある。
  • ……そうであるなら、しかし、このように考えることもできる。このような小さくて吹けば飛ぶようなものに、かろうじて支えられている私たちの生こそが、私たちが生きているのが近代であることを証し立てているのであり、そもそも、どんなふうに私たちを取巻く時代が変わろうと、いやむしろ「近代」がその変化を促進すればするほど、私たちの生の芯の部分の変わらなさは、くっきりとしてくるのである、と。
  • 私は、このふたつの間でずっと揺れている。しかしこの頃は、後者を否定するのではなく礎石として、橋頭堡として揺るぎなく確保しつつ、そこからさらに変化へ向けての出発を強調することのほうが、重要なのではないかと思っている。……だからアドルノやらルカーチやら丸山眞男を、単なる「進歩派」ではなく保守思想家として再読しているのでもある。丸山から引くなら、「「思い出」を自覚的に駆使する」ために。
  • 抽選に外れ、しかしそれでも当日行けばよかったと後悔すること頻りだった、今年の美浜海遊祭のSKE48のライヴを真夜中にみている。《仲間の歌》の中西優香の煽りは、どうしてこんなに泣けるんだろう(これをいつも通りにししに委ねた宮澤佐江は立派だと思った)。須田亜香里は、ダンスが動き、流れるなかでも、身体の芯だけはぴたりと静止しているさまが、ダンスそのものの懸命な激しさと相俟って大変美しいのだが、それだけでなく、ちょっと硬くてすこし震えるあの歌声も私は大好きなのである。