- 『アラザル』12号に載った堤拓哉の批評「「重症心身障害児(者)」と「芸術」の臨界点」について、書いておきたい。
- 堤は、重症心身障害児者の女性を、施設のスタッフであったサザーランドという男がレイプして妊娠させた事件を、ただ被害者が、無抵抗な物体のようにレイプされたというのではなく、ふたりの間には「恋愛関係があったと仮定してみたい」と書く。
- これは、そういうふうに考えることで、「《「重症心身障害児(者)」に恋愛ができるはずがない》という、私たちの思い込みが露わになるからである」と堤は述べ、このように「仮定」することは、私たちの偏頗な常識への揺さぶりであり、「問題提起」なのであると書く。さらに堤は、加害者と「被害者の本気の恋愛があったかもしれないと想像することで初めて、「重症心身障害児(者)」の人権や人格を尊重することになるのではないか」と書く。
- 堤は、相模原の虐殺事件の加害者とおなじように「健全者」である私たちは、所詮、「重症心身障害児(者)」のことを何もできない、ただ生きているだけのものみたいなもんだと思っているだろう、と突きつけたいのだろう。しかし、レイプをレイプでないものにしてしまうことは、「問題提起」ではなく、議論のコミュニケーションの渦に読み手を否応なく巻き込むための、いわゆる「釣り」に過ぎない。アジビラならともかく、堤が書いているものが批評であるならば、批評が「釣り」をやるのは、まったく感心しない。
- やはり、どうしたってレイプはレイプなのだ。「本気の恋愛」のあるなしなど、まったくどうでもいいことだ。「人権や人格を尊重する」ということが、恋愛などの親しいコミュニケーションや家族の睦みあいのようなものからでなければ生成しないと考えることを、やめなければならない。或るひとの生のどこにも他者からの共感も愛も何もなくても、人権や人格が尊重されなければならないのは、等しく生得のものなのである。これは現実を見ることをしない理想論などではなく、そのように遍く設定され、履行されることが、社会の誰にとっても、最も大きな幸福という利益を齎すからである。
- むしろ、そこに欠片も存在しなかっただろう恋愛を仮定するよりも、重症心身障害者の暮らす職場で「約八年勤めていた」にもかかわらず、(堤の文から幾つか言葉を借りるなら)、彼らが不断に発していたであろう「動き」を、「不断の闘争(ふれあい)」を感受することに耳も眼も塞ぎ、ただ、「性欲処理」のためのもののように重症心身障害児者をレイプするだけだったサザーランドの加害者への転落を、その暴力をみつめることをしなければならないだろう。被害女性に必要なのはケアである。
- そして堤は、サザーランドは既婚者だったから、重症心身障害者の被害者の女性との間に「本気の恋愛があったかもしれないと想像する」なら、被害者は「浮気/不倫したことにはなるが、それはまた別の問題として」と書く。重症心身障害者もまた、不貞の加害者になることができるということだろう。堤は、重症心身障害者も「本気の恋愛」ができたり、加害者になれるという可能性を外から性急に付与することで、彼が批判しているはずの「普通に生きる」ことを、むしろ、彼らに生きさせようとしてしまっている。
- 堤は「《いかに「普通」でないように生きられるか》」がこれからの「《「重症心身障害児(者)」の命のあり方》」で探られるべきであり、それは「社会との関わりをもっともっと持てるようになった地平に、見えてくるに違いない」と書く。だが、「重症心身障害児(者)」は、ただ黙って被害を蒙るだけでなく加害者にもなれるのだと「仮定」して、彼らの生のありようを引き伸ばしてゆくとき、それは、堤が最も批判したい対象であるだろう植松聖の浅薄な有用性の物指しと、やがて分かち難く癒着してしまうのではないか。