『水死』、凄まじい。

  • 大江健三郎の『水死』を読み終える。これはスゴイ。前作の『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』も良かったが、この『水死』に比べると、こちらが断然、圧倒的。ところどころ、批評への絶望がじわりと滲み出るふうでもある(考え得る読みを幾つも登場人物たちが提示する!)のだが、大江はこの小説で、ずっと取り組んできた「晩年の仕事」を最高のレヴェルで達成している。2000年の『取り替え子』から2009年の『水死』で、ゼロ年代と呼ばれるディケイドを通して、大江は見事な仕事を成し遂げたのである。
  • 兎に角、読んでいる間中、ラストまでずっと驚かされっぱなしだったのだが、それは例えば「アカリさん」が彼の父である小説家の書いたものを読み、さらにそのテクストから引用し、それをもじることすらするのである!(書くことの暴力(書かれることで被る暴力)とは、ひとつの声のなかに投げ込まれて、その声のなかに配置されてしまうことであるとするなら、大江の小説に於ける「アカリさん」とは、そのような暴力の被害者としてあったと云うことができるだろう。「アカリさん」には、「音楽」が特権的なものとして与えられていたわけだが、それが大江の小説のなかで確かな力として、「父」の「文」に抗し得ていたと云うのではなかった。書く/書かれることから生じた暴力への抵抗は、書かれたものを読む(読み込む)ことからしか立ちあげることはできない。テクストに於いて、これが君と云う「私の言葉」なのだと与えられたものを読み破ること。『水死』に於いて「アカリさん」は遂に、まさに「私の言葉」を逆手にとって、「父」の「文」を踏み超える。それを大江の小説は肯定するのだ。)
  • 中野重治のアンソロジーを読み始める。まず、詩から。「夜明け前のさよなら」、「夜刈りの思い出」、「雨の降る品川駅」などに、ドカンと驚く。どうしてもっと早くから読んでおかなかったんだ!?(もちろん、私が詩に殆ど興味がないからである。)