- 姑が植えた梅の木の枝の一本に、紫色の粒状の虫がみっしりとへばりついていたので、小さな鋸を持ち出してきて、切り取ってから、アルバイトにゆく。私のおでこに視線を据えて、お客さんが、「大丈夫ですか!? それ?」と云う。どうやら、庭に出たとき、おでこを蚊に刺されたらしく、ぶっくりと腫れていた。しばらくすると、落ち着く。
- 非公開のブログを書くと云うことは、毎日タイムカプセルを埋めているようなものなんだ、或るひとから聞く。成るほど!と思う。
- 山城むつみの『文学のプログラム』に収められた「小林批評のクリティカル・ポイント」を読み終える。これは、半端なくスゴイ。例えば、こんなふう。
小林は「死」に直面した意識の「限界点」にドストエフスキイの思想を洞察した。そして、これを感触としてとらえようと試みる。しかし、それがドストエフスキイ固有の思想である以上、ドストエフスキイ自身がその筆力の限りをつくして書きえなかったことを小林が書くことはできない。それは才能の問題ではなく、「書く」ことと「読む」ことの本質から来る原理的な障害である。「作家が書かなかったことを自分が書いてはならない」という「禁止」の命題は、いまでは「作家が書けなかったことを自分が書くことはできない」という「不可能性」の命題としてあらわれている。
この「不可能性」がパラドックスの最後の露出である。「読む」ことと「書く」ことに課せられたあの厳格な「禁止」は、反転されて荒唐無稽な「反復」によって突破されたが、ここでふたたび「不可能性」として盛り返してくる。かつて、厳密かつ忠実に読み、書く者の自制と禁欲の身振りであったものが、いまや反転し、過ちと挫折の身振りとなる。じっさい、小林がドストエフスキイの思想、すなわちあの「限界点」に肉薄すればするほど、このパラドックスは全面的に「不可能性」を露出していき、ついには「反復」をも座礁させる。
- 帰宅して、柚子と晩御飯を食べながら、NHKで放送していたオペラを途中から眺める。何だかえげつないほどのイタリア・オペラだなあと思いながら、結構愉しんでみていると、やがて柚子が「これはメアリー・ステュアートのお話じゃないか?」と呟き、ようやく新聞を取ってきて調べたら、ドニゼッティの『マリア・ストゥアルダ』だった。
- 肩が凝って、柚子に揉んでもらう。そのまま寝てしまう。。。。。。。