• 多木浩二の『映像の歴史哲学』から書き抜いておく。

写真というのは何かがすでに写っているわけですね。写真そのものが「デノート」(明示的な意味を示す)しているわけです。そこには「レフェラン」(指示対象)があるわけだから、そのレフェランをキャプションに書いたって意味が情報的になるだけであって何の意味も増殖しない。/たとえばある地形があるとします。その地形によって何がもたらされたか、ということについて、写真のなかに写っていないことを書け、と彼(名取洋之助)はしばしば言うのです。考えてみると、それはデノテーション(外示的意味)ではなくコノテーション(含意といってもいいし、共示的な意味といってもいいですが)を書きなさい、ということなのです。

  • 今福龍太が編んだ多木浩二の講義録『映像の歴史哲学』を読み始める。「写真には、いつも過去と現在しかないのだ」「それらが風で吹き飛ばされないように、必死で繋ぎ留めているのは、われわれの現在なのである。」「巨大な船が沈没する・タイタニック――これは事件だ。人びとはそれを歴史に書き込む。しかし難破につづく溺死者のながい漂流――それは歴史の外にある。偶然、どこからか流れてきて、次々と浜辺に打ち上げられてくる溺死者の群れ。写真もそんなふうにして生まれてくるのだ。」
  • 帰宅する。くさくさしているので、リームの《トゥトゥグリ》を引っぱりだしてきて、音はそんなに上げないで、聴く。

  • 十年ぐらい前の元旦、突然奥歯が痛くなり、泣きながら柚子にタクシーで救急に連れて行ってもらったことがある。そのあとから通った駅前の歯科医院(ネットで調べたら、昔は丁寧だったのに客が増えるようになってからは……と書き込みされていた)に朝起きてから久しぶりに電話をすると、昼前なら応急処置で診てくれるとのこと。仕事に行く前に寄る。歯科衛生士の女性がすごくしっかり処置してくれて安心する。そのあとの院長の仕事も相変わらず手早くて何の心配もなかった。しばらく、また通うことになる。
  • せめて日記ぐらい書きたいと思うが、全然書けず、洗濯物も取り込めず。だらだらと眠る。

  • 今日は仕事が終ったら早く帰ろうと思ってそれなりに早く帰ってきたのだが、帰って菓子パンを食べて、ちょっと奥歯に違和感があって、爪の先で歯と歯茎の間を押していると、詰め物をしている銀歯が、ぽとん、と舌の上に転がり落ちてくる。
  • 柚子が帰宅してから晩御飯を食べる。蒲団のなかで本を読んでいるうちに眠ってしまう。何も書けず。

  • 昨日は疲れはてたので、とにかく眠る。よく寝たのでずいぶん気持ちも楽で、朝は風呂に入って仕事に行く。
  • 帰ってきて柚子と晩御飯を食べて、ケーキも食べる。
  • 蓮實重彦の再読はどんどん気持ちよくなってきてまだ続いていて、『批評あるいは仮死の祭典』を読んでいる。これはたぶん阿部良雄の『西欧との対話』を睨みながら書かれた本だろう。

  • ずっと起きないで眠っていると、東京駅のバス停に着く。雨。駅の中の本屋でぶらぶらしているうちに、いい時間になったので、地下鉄で乃木坂まで移動して、国立新美術館で「ピエール・ボナール」展をみる。セザンヌキュビスムマティスも経験して、それでもじぶんの絵を描くということ。特に、裸婦と室内画が選んで飾られたふたつの展示室では、ひたすら感嘆する。やはりボナールは私にとって、特別な画家のひとりである。無理を云って、見にきてよかった。
  • 六本木トンネルを潜って写真を撮りながらぶらぶら歩いてマクドナルドで、書評の原稿の手直しをしてメールで送る。
  • そのあと東銀座まで出る。歌舞伎座とマガジンハウスの前に何台も消防車が停まっているのを横目に、法律事務所のなかのIG Photo Galleryで、金村修の「Suck Social Stomach」展をみる。
  • わざわざ地下鉄で銀座まで乗る。ギャラリー小柳でミヒャエル・ボレマンスとマーク・マンダースの二人展をみる。マンダース、やはり良い。
  • もう四時を過ぎていて、足がくたびれたので、東京駅まで戻る。途中、名古屋で降りて、SKEの「お渡し会」に参加してみようかと思うが、「お渡し会」がどういう仕組みかよく判っていないので諦めてそのまま帰宅する。
  • FNS歌謡祭で、須田亜香里がメンバーに入っている選抜ユニットのライヴの生放送を、裏番組の『獣になれない私たち』を録画しているので、とても真剣に、画面を注視しながら見つめる。こういうところに須田が選ばれているのがとても嬉しい。
  • それが終わると、疲れて、蒲団のなかに潜り込む。

  • 朝起きだして、昨日書いたものを読む。このままだと幾らでも細部が膨れて終わらなくなると判断して、書きたいことをふたつに絞る。それから冒頭を書き改めると、なんとか昨夜に書いた分が整理できて、昼過ぎには書き終える。
  • 宝塚に行く。阪急に乗っていると、携帯がずっと圏外(ときどき繋がる)になる。こんな時期にぶっ壊れなくてもいいのになあと舌打ち。あとでソフトバンクのほうの問題と判る。柚子と大劇場の食堂でたこ焼きを食べるつもりだったのに食いそびれる。
  • 雪組の《ファントム》をみる。花組での二度の再演版の、ちょうど中間ぐらいのテイスト。望海風斗も真彩希帆も歌が巧くて、とてもいい。しかし、クリスティーヌの登場して最初の花売りのナンバーから、もう涙が出てきて困る。エリックの従者たちのなかのひとりが、頭の後ろに黒いリボンをつけている、たぶん娘役さんのダンスがとても気持ちがよくて、出番があるたび、ずっとオペラで追いかけている。幕間でパンフを繰ったら、たぶん笙乃茅桜。すごくいい。
  • 私はなぜかこのミュージカルの父と子の物語にとても弱くて、第二幕はもうほとんど嗚咽しっぱなしである。涙が止まらない。しかし泣きながら、これはどうやらじぶんは今ずいぶん弱っているらしいぞと思う。泣きに泣きまくることで、カタルシスを貪ろうとしているなと思う。こんなところで、やはり少し参っていることを実感する。お芝居が終わってからのエンディングのショウも色が鮮やかできらきらしていて、堪能する。
  • 靴底に穴が開いたので、元町で柚子に靴を買ってもらう。そのあと「ムジカ」でお茶を呑んで帰宅する。少しだけ原稿を訂正して、メールで送る。朝方までラジオを聴いたり、届いた『キネマ旬報』を読んだりしている。生涯のベストテンにたぶん必ず入れるアンゲロプロスの大傑作『アレクサンダー大王』がじぶんのを含め三票。そのうちのひとりは佐藤忠男だった。佐藤忠男とおなじテーブルに坐る日がくるなんて。