• 十年以上積みっぱなしにしていた、第一次安倍内閣ルポルタージュ『官邸崩壊』を読んだ。著者の上杉隆の現在の凋落ぶりもそうとうひどいが、これは面白い本だった。
  • 現在の安倍内閣は、官房副長官の事務方の人事で、第一次のときに官僚たちからそっぽを向かれたので、今度は公安・警備を渡り歩いてきた杉田和博を据えて睨みをきかせるとか、小賢しく不快な学習はしているが、名声は欲しがるけど無為無策、失敗は反省せずに隠蔽したり野党やマスコミのせいにするとか、基本的な姿勢は以前と何も変わっていないというのがよくわかって、絶望的に笑えた。
  • 安倍自身も、何も変化していないのがよく判る。演説の三分の一以上は民主党の悪口の安倍、年金記録問題は菅直人のせいにしようとする安倍、教育基本法改正の前に行ったタウンミーティングは仕込みのヤラセが連発だった安倍、議員会館の前でデモを行った教職員たちに、「あれ、先生たちでしょ?仕事もしないでおかしいよね」と文句をいう安倍、じぶんを擁護してくれないジャーナリストは全員「薄汚い勢力」だと信じる安倍。彼はずっと、全くぶれないのだ。
  • 周辺の人物たちも、第一次をそうとう引き継いでいる。在特会とつるむことになる山谷えり子DJ OZMAの紅白のパフォーマンスを「ファミリー・ハラスメントだ!」と喚き、自己喧伝ばかり得意な広報担当の世耕弘成は、米下院の「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」の対応で、わざわざ渡米して派手にしくじり、問題を大きくしてしまう。
  • 第二次安倍政権が、従軍慰安婦問題を眼の敵にして、それが歴史的事実であろうが何だろうが、頑なに頭から否定するのは、これを認めると、第一次のときの大失態が意識に浮上してきて、パニックを起こして耐えられなくなるからであり、正しい歴史認識がどうしたなんて、本当はどうでもいいはずだ。とにかく、じぶんたちのしくじりと改めて向き合う恐怖から眼を逸らしたいので、従軍慰安婦問題も消えてほしいと思っているだけなのだ。
  • 当番の日なのに、総理直々の電話に出ないというミスをする脇役で、今井尚哉も出てくる。
  • 上杉は、「何をやっても同じだ、と気付いた時、安倍は、驚くほど頑固な独自路線を邁進する」と書く。これも今も変わらない。「何をやっても同じ」なら、どんな不祥事が起きても閣僚は罷免しないし、責任はとらないし、公文書も破棄するし、記憶も書き換えていい。野党やマスコミに対して、口から出まかせの的外れな反論をしてもいいのだ。
  • 安倍は2015年4月29日、ホワイトハウスでのオバマとの夕食会で、『ハウス・オブ・カード』のハードコアなファンであると告白した。続けて「しかし、このドラマを仲間の副総理に見せることはないでしょう」といって、笑いを誘ったという。
  • なぜ安倍はこのドラマを他の閣僚に見せないのか? 
  • もういちど掴んだ権力の座から追われるハウ・トゥになってはいけないからだろうか?
  • そうではないだろう。権謀術数を巡らしたクーデタなど、あらゆる失敗を否認して抑圧することで仲間や組織を支えるクリーンなこの政権下において、起こるわけがない。ならば、安倍が側近に『ハウス・オブ・カード』を見せない理由は、私邸での夫婦ふたりきりの生活を想像させることと、いつも見えない透明な誰かと喋っているフランク・アンダーウッドとじぶんを重ねられることを拒むからだろう。
  • 安倍は、いつもプロンプターに左右を囲まれて記者会見をする。このとき彼は、目の前にある透明なガラスの板だけを見つめていて、眼の前の記者たちではなく、プロンプターに向かって話しかけている。じぶんにとって都合の悪い現実から隔ててくれるガラスの壁の鏡像とのやりとりこそが、安倍にとっての対話なのだ。
  • 「安倍には得体の知れないモノに対して、第三者に強い姿勢を見せることで、自らの恐れを隠すという習性があった」と上杉は書く。国会中継で、安倍が野党議員に対して、子供のような野次を飛ばすのは、ガラスの壁の向こうの国民に向かって「強い姿勢をみせて、自らの恐れを隠すという習性」の表れなのだ。安倍が、われら臣民から愛される理由がよく判る。
  • 安倍は今、アベノマスクと囃されていることを心底嫌がっているという。
  • 眼に見えないウイルスを防ぐことはおろか、顔をきちんと覆い隠すことすらできない糞役立たずのマスクとじぶんが同一視されること。安全な場所で守られながら粋がりたい安倍にとって、防御なしで、現実に曝されていること以上の緊急事態はないだろう。その恐怖は、察するに余りある。

  • 洗濯物を干してから仕事に。職場の近くのコンビニは、カウンターのへりに透明のビニールシートを垂らして、カネのやりとりはトレイで行うようになっていた。百均のレジ前の通路には、養生テープで印が貼ってあり、前の人と近づきすぎないようにしてある。地下のスーパーに続くエスカレータの前では、店員が門番のように立って、店内に降りる人の制限をしていた。ただの商店街のスーパーの前に行列ができるのを、はじめてみた。戦時下などという言葉は決して使いたくないが、何かがぐずぐずと崩壊しはじめているのは肌で感じる。今日の昼は串揚の店は開いていて、嬉しくて駆け込む。換気のためだろう、入口の引き戸は開けっ放してある。何かの綿毛が飛んできた。
  • 洗濯物を取り込む。柚子が帰ってきて、晩飯をつくってくれたのを食べる。転寝するが、暖房が暑すぎて眼が醒める。
  • 夜中まで起きているが、起きているだけ。

  • いつも昼飯を食いに通っている店はどちらも臨時休業している。しかたなくテイクアウトの弁当を買ってきて食べる。
  • 珍しく帰宅ラッシュの時間にかち合う。ホームに滑り込んできた快速の中の混み具合を、開いたドア越しにみて、思わずたじろいでしまう。気にしすぎだろとじぶんでも思いつつも、列車から離れ、次の普通を待つ。
  • 夕食のあと台所の洗い物をする。そうとういらいらしているのを感じる。とてもよくない。

  • すっきり晴れている。カメラを持ってきて、窓越しに写真を撮る。「しま」にカメラを向けると、たいてい顔を背ける。柚子のようにかわいらしく撮ることができない(岩合さん曰く「いい写真を撮ろうという邪念が、猫を警戒させているのだ」)。彼女の朝ごはんを用意する。ふと、避難所に猫を連れてくるなといわれたら避難なんかしない、と思う。出かけようかと思うが、出ず。柚子が帰宅してから、夜、牛乳を買いに近所へ歩いて出ただけ。桜はまだ咲いている。はやく眠る。

  • ずっと雨。じっとりとしんどい。傘を差してゴミを棄てに行くが、今日は収集車が早かったみたいで、ゴミ袋を家に持ち帰る。原稿を書くためにテキストを広げる。少しだけ本を読む。YouTubeで馴染みの音楽をぼーっと聴く。「しま」と少しだけ話す。もう夜になっている。柚子が帰宅する。そろそろテレワークでよいというふうになるかもとの由。メールを書く。維新が支持を伸ばしているらしい。じぶんでぶっ壊しておいて、ぶっ壊れてる!頑張ります!とマッチポンプも甚だしい。政治家は顔とか着ているスーツとか住んでいる家のインテリアを見て、投票に値するかどうか判断すれば、維新なんて選べなくなる。政策とか年齢とか性別とか、そんなものは二の次で選べば、もう少しマシな選択ができるはずだ。文化予算を十倍ぐらいにして、人びとが美術館に行って美術をつくづく見て、考えることに慣れれば、解決することだ。声は? 声は表象なのか、そうでないのか。声だけいいバカはいるので、それで選ぶのはやめておいたほうがいいと思う。夕食をとる。そのまま今で朝まで転寝。眼が醒めると、すぐに判るらしくて、「しま」がごはんの準備を要求して鳴く。

  • 雨。昼の休憩はファミレスでとる。テーブルは間引いてある。向かい合って坐る爺さんと婆さんがグラッパの赤ワインを呑みながら素顔を曝して大声で喋っている。そのずっと奥の席には、やはりひとつのテーブルに若い男女が坐っている。彼らはマスクをして、何も喋らず俯いて、それぞれの手の中のスマートフォンの画面を見つめたり、ときどき触ったりしている。電車でたまたま乗り合わせた他人同士のように。*1
  • 仕事の帰りに、Zoomで飲み会をやろうと友人たちを誘っておいて、その開始時刻までの間に、眠ってしまい、朝まで起きなかった。
  • たいてい一緒にいる地域猫(たぶん兄弟)二匹が、ごはんをもらっているおうちの軒下で、雨宿りをしていた。
  • 我らが宰相殿は、もしかして、ムッソリーニチャウシェスクのように吊るしてほしくて、あんな動画をあげているのだろうか?
  • 長澤均さんの「Mondo modern」から、氏の旧蔵のルイス・ボルツの図録『RULE WITHOUT EXCEPTION』が届く。冒頭にペーター・ハントケの日記『世界の重量』から「the trouble with great literature is that any asshole can identify with it.」という言葉が引いてある。「偉大な文学の問題は、どんな馬鹿もそれに共感できるということだ」。ボルツとか金村とかエヴァンスとか、偉大な写真家たちの作品を見ていると、どんどんパクっていいのだと思える。フリードランダーごっこやエグルストンごっこは、どんどんやっていいのだ(ウィノグランドごっこをやるのは難しい世の中であるので、カメラのストラップの短さを真似している)。彼らとおなじ写真を撮ることはできない。絶対にズレる。そのずれを、どんどん撮ってしっかり考えることでしか、じぶんの写真を撮ることはできないと思う。
  • ボルツは、どの土地で撮っていても、画面のなかで空を切り取る割合が、だいたい同じで、かっこいい。

*1:どっちがいいとか悪いとかではない。若者が我慢しているのに年寄りは、とか、そんなことではない。少しは弁えて静かにしろボケ爺と思ったのも事実だ。そして、実は若者ふたりは何も会話していないように見えるけど、ソーシャル・ディスタンスを守って、LINEで清く正しくお喋りしていたのでした、みたいなツイッターに無数にアップされているような、1ページの漫画はすぐにも描けるだろう。しかし、2000年代中盤から、根も葉もない「在日特権」で差別を煽ったヘイト漫画家が、2010年に出版したのは、老人だけが若者から搾取して、いい思いをしているぞという糞漫画だったのはきっちり覚えておくべきだ。差別を扇動することで生活している奴らは、今じぶんが年寄りではないということでさえ(じぶんもやがて年をとることは棚に上げて)メシのタネにするのだから。

  • 今朝はハンブルク州立歌劇場の《パルジファル》をぼーっと眺めている。このところあちこちの歌劇場が《パルジファル》をアップしていて、それをつまみ食いしている。コロナの時代の音楽としての《パルジファル》。ずっと治らない傷口から血を流し続けながら、周囲からは「役割を果たせ」と責め苛まれているアンフォルタスはもちろん第三幕の譫妄のトリスタンの継続なのだろうが、それにしても、彼は20世紀以降の藝術のアイコンとして最もふさわしい。クンドリが運んできてくれるバルザムは効かない。「おまえを傷つけた聖槍だけが、その傷を癒すことができる」のだが、濃厚接触からはじまるコロナは、それをやめて個々が己を慎み、ソーシャル・ディスタンスを取って分断されることにより癒される。しかしその分断によって人びとが得られるのは、私秘的な空間ではなく、管理しやすく紐づけされている。コロナの時代のアンフォルタスには、救済としての死すら与えられず、主体だけが残り、この私は消える。