• 夕方から出かける。久しぶりに入った元町の古本屋でニック・ワプリントンの『Truth or Consequences』とか『映画理論集成』が安かったので買ってから、シネ・リーブル神戸でマイク・ミルズの『カモンカモン』を見る。撮影はロビー・ライアン。この映画もモノクロームで撮られている(映画の終わりの献辞のワンカットだけがカラーになる)。モーツァルトの《レクイエム》が大きな音で流れて、偶然だけど驚いた。音の作り込みがとても丁寧な映画だった。
  • しかし、どうして皆こぞってモノクロで今を撮るのだろう。昔の映画はその時代の今をモノクロで撮っていたではないか。それと同じことを敢えてやっているだけなのか。それにしても理由があるはずだ。今わざわざモノクロを選ぶのはむしろ、今を撮りながら今らしさを脱色するためだろう。『パリ13区』も『カモンカモン』も、単なる今ではなくて、宙づりされた特別な時間を描いているのだが、色を剥ぎ取られることで、そのモラトリアムはむしろ永遠性を帯びる。
  • 鋭敏な作家たちは、カラーで今を撮るということのきつさを感じているのだろう。カラーで撮るとは、無数の色が纏いついている今がずっと続いてゆく今を、偶然の始まりと終わりでフレーミングすることである。ふと、私もモノクロで写真を撮ってみようかと思うが、デジタルカメラで撮るモノクロというのは、アプリの操作でしかない。

  • 気になって注文したテオドール・クルレンツィスとムジカエテルナのモーツァルトの《レクイエム》を引き取ってきた。モーツァルトは子供のときに大好きで、それからのめり込むことはないまま(カール・ベームとの相性の悪さのせいだと思っている)、ときどき試してみるものの、今は敬して遠ざけるという具合である。しかしこの録音は、楽団の奏でるごりごりした音の粒だとか、「ラクリモーサ」のあとの鈴の音だとか、クルレンツィスの演出に誘われて、ということもあるだろうが、久しぶりに驚きを感じながら、新鮮に聴くことができた。

  • 夕方から出かけて神戸国際会館のキノシネマでジャック・オーディアールの『パリ13区』を見た。ちんこもまんこも元気な男と女がそれでも切なくなったり孤独を感じたり、タブレットスマートフォンの画面を介して辛くなったり励まされたり、胸糞悪い中傷誹謗にお返しのパンチをきっちり見舞ったりバイト先でバレエを披露したりしながら、割れ鍋に閉じ蓋の幸せなふた組のカップルができるまでを描く。新人のルーシー・チャンをはじめ4人の俳優がとてもいい。爽快な映画だった。撮影はポール・ギローム。モノクロの画面がワンショットだけカラーになるのは最近なら『ベルファスト』にもあったなと思い出す。

  • ほぼ毎晩アップされていたクォン・ウンビの《Glitch》は今日でカムバのTV出演が最後らしい。ウンビオンニのヴォーギング好きから触発されてマドンナの《ヴォーグ》のMVをこの頃よく見ているのだが、とても良くて、何度も見たあとに、ふと気になって調べたら監督がデイヴィッド・フィンチャーだった。

  • 洗濯物を干すと、「しま」がベランダについてくる。
  • 午後から出かけて神戸文化ホールで神戸市室内管弦楽団定期演奏会を聴く。指揮は音楽監督鈴木秀美ハイドンの《83番》がとても素晴らしかった。特に第2楽章の、音楽が満ち引きしてよく動きまわるさまが、とても見事で興奮した。今次の戦争に抗する鈴木の短いスピーチのあとに奏されたアンコールのシューベルト《ロザムンテ》の《間奏曲第3番》も良かった。

  • 狭いテーブルを挟んで、マリウポリの「解放」が終了したとショイグがプーチンに報告している映像を見る。カメラは真横から、しかし坐っている二人よりは少し高い位置で、テーブルの天板が斜めに見えるくらいのところから撮っている。マクロンと会ったときの高級リムジンみたいな長さのそれに比べると、珈琲一杯の値段がちょっと高めの喫茶室にあるような小さいテーブルで、プーチンとショイグは向き合っているが、オルセーにあるセザンヌの《カード遊びをする人々》を、ふと思い出す。しかし、プーチンは椅子に深く腰掛けすぎているし、ショイグは前のほうに坐りすぎである。