王党派の旗の下に

  • 終日、家で過ごす。
  • 次の仕事をどうするかと云うことを考え始めると頭が痛くなる。どう考えても辞めるしか道のない今の会社すらやはり辞めないほうがよかったかと、ちかちかと疼くように思う始末で、こういう答えの出にくいものを倦まずたゆまず考えることができるように、じぶんは哲学だの批評だのを読んだり学んだりしてきたのではなかったかと情けなく思う。その一方で、何、辞めるまでひと月あるじゃないか、なんとかなるよ、と云う根絶やしにできぬ昔ながらの暢気が胸奥に蜘蛛の巣のように蔓延っていて、なるほど私の躁鬱な気質がこの両極でバランスを取っているのは判るが、やはりどうにもこうにも始末が悪い。などと鬱屈しながら夕食後の皿洗い。
  • 此処一週間ほどの日記を纏め、三島由紀夫の書いた批評を摘まみ読みしつつ、YouTubeに掲載されている彼のインタヴュー映像などを観ながら、義姉が家に残していった三島由紀夫がその死の一週間前に古林尚と対談した記録テープをぼんやりと聴く。「日本の古典の言葉が身体に入っているものは、もうじぶんのあとには出てこない」「最後の人間」「もうくたびれ果てて……」などの三島の述懐が出てくるそれを、ぼんやりと聴きながら、同時代の知識人たちに、三島由紀夫は敬意を表されながらも、同時に、小馬鹿にされていたことを思い出していた。天皇を崇敬し、私兵を抱え、ボディビルで身体を作った三島は、彼らにはキッチュな嘲笑の的だった。
  • 三島の天皇主義や文化防衛論が、結局、自民党右派や既存の右翼運動に利用されることにならないかと危惧する古林に、三島は、それらもまた、彼が否定する「戦後」の一様態でしかないわけで、そんなものには回収されたり利用されたりはしないと決然と断言し、「まあ見ていてくださいよ」と語る。
  • 最近、U君との勉強会をきっかけに、憲法論議の本を読んだりして考えるのだが、嘗て私は暴力革命に可能性を感じていた。徹底的な騒乱だけが新しい事態を更新し得る、と。
  • しかし、そんなものは嘘っぱちで、人間の本質には、緯度も経度も時代さえもなく、だからこそ異なる時代や国の文藝を私たちは他人事でなくしみじみと味わうことができる。
  • であれば、やはり私と同じような理想を掲げながら、結局、虐殺の犠牲者のリストを更新することだけしかできなかったフランスやロシアやカンボジア、そして新左翼の各セクトやオウムなどの革命が辿った道と、私の革命だけがどうしてそれと異なる道を進むことができると云うのか。それで私は革命を棄てた。そして同時に「新しい」と称するものやことへの期待も棄てた。
  • どんな政治思想家よりファッション・デザイナーのほうがよく理解していることだろうが、最も新しいものは、最も古く、使い古されて弊履のように打ち棄てられているもののなかにしかないと信じるようになったからだ。
  • そして、昨日より今日、新しいものが良いとされる現在の私たちの生きる環境をぐるりと見回したとき、そういうものへのアンチを捜すと、どうしても天皇制が目に入ってくる。もちろん私の目に真っ先に飛び込んできたものは文化や芸術だった。だが、だからと云って私は、視界の中央でちらちらしている天皇制を、ずっと見えないものとして無視し続けることができなかった。
  • ずっと変わらないもの、各々は個でありながら連綿たる継承であるもの。日々の暮らしが如何に経済原理ですっぽり覆われようと、その外部で、些かも変わらないものの象徴としての天皇制。そういう天皇制になら、私は賭けてもよいと思っている。
  • 日本国憲法を引き受けた敗戦当時の政治家たちの最大の狙いは、天皇の生命を救うことにあった。それから60年の歳月を経て、憲法を始めとするアメリカ起源のシステムが、あちこちで疲弊し、軋轢を生んでいる。日本国憲法の改正が主張され、それに少なくない数の支持が集まる現在と、天皇制や天皇が如何にも粗略に扱われている現在が重なり合っているのは、決して偶然ではないと思う。その成立時に天皇と密接に関係している日本国憲法に否が突き付けられると云うことは、戦後の象徴天皇制にも否が突き付けられていると云うなのではないか? 天皇制を廃し共和制を敷こうとすることを主張するひとも、決していわゆる左翼のなかだけでなくいる。私はそれに、断固反対する。
  • そう、私は王党派なのだ。