本を読んだり駄弁ったり。

  • 「「である」ことと「する」こと」を読み終える。
  • 丸山眞男は貴族だった。彼は「現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくこと」だと云い、アンドレ・シーグフリートの言葉を解説しながら、斯う述べる。

「教養においては----ここで教養とシーグフリードがいっているのは、いわゆる物知りという意味の教養ではなくて、内面的な精神生活のことをいうのですが----しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。」そうして彼はちょうど「である」と「する」という言葉をつかって、教養のかけがえのない個体性が、彼のすることではなくて、彼があるところに、あるという自覚をもとうとするところに軸をおいていることを強調しています。ですから彼によれば芸術や教養は「果実よりは花」なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値があるというわけです。こうした文化での価値基準を大衆の嗜好や多数決できめられないのはそのためです。「古典」というものが何故学問や芸術の世界で意味をもっているかということがまさにこの問題にかかわって来ます。
政治や経済の制度には、学問や芸術の創造活動の源泉としての「古典」にあたるようなものはありません。せいぜい「先例」と「過去の教訓」があるだけであり、それは両者の重大なちがいを暗示しています。政治にはそれ自体としての価値などというものはないのです。政治はどこまでも「果実」によって判定されねばなりません。(……)
(……)文化的創造にとっては、ただ前へ前へ進むとか、不断に忙しく働いているということよりも、価値の蓄積ということがなにより大事だからです。

  • そのまま第二章の「近代日本の思想と文学」を読み始める。ちなみに、今後『日本の思想』をお読みになる方は三章、四章を読んでから、一章、二章と云う順番で進んで行かれるのが最も良いと思う。
  • 仕事を終えてU君邸。再び討議を記録するが、お互い前回のテンションや論理の展開には遠く及ばず。