権力者の懐疑と孤独と強制された赦し

  • 夕方まで柚子も出かけていたので、終日、家のなかでうだうだと過ごす。
  • 久しぶりに観た*1が、やっぱりニコール・キッドマンを最も美しく撮ることができるのは、キューブリックを除くと、バズ・ラーマンが随一である。新作『オーストラリア』*2が愉しみで仕方がない。
  • DVDで、モーツァルトの最後のオペラである『皇帝ティートの慈悲』を観る。同じ演出で2006年も上演されたらしいが*3、これは2003年のザルツブルク音楽祭の実況盤*4。演出はマルティン・クシェイ
  • さて、このオペラの本筋を非常に乱暴に纏めてしまえば、ティート帝の暗殺未遂事件が起こるが、それを企んだ先帝の娘ヴィテッリアと、彼女に唆された実行犯で、ティートの親友でもあるセストのふたりを、皇帝が赦すと云うものだ。だが、実際の処、ティートは赦す以外に為す術がないのだ。
  • フェルゼンライトシューレの巨大な舞台の上には、まるで砲撃で壁面を破壊され、内部が剥き出しになったビルのようなセットが組まれている。序曲が始まる直前、場景は真夜中だろう、ティート帝が脅えたような表情で、電話を呼び出している。アーノンクールのタクトと共に、皇帝は、やがて狂った犬のようにビルの上下を走り回り、壁のドアをひとつひとつ開けて、中を確かめ、ようやくベッドに戻る。すると、青白い光に照らされて、下着だけを身に着けた少年たちが、亡霊のようにビルのあちこちに無言で立ち尽くしている。終幕で少年たちは再び登場するが、今度は裸にされて食卓の上に並べられ、大人たちの掌が、彼らの胸の上に乗せられている。
  • 私は、子供の臓器売買を想起した。
  • 可視的で、醜悪な暴力としての権力を、決してティート帝はふるわないし、市民もまた、セストの騒擾に対する怒りに現われているように、みずからの生活を破壊しかねないテロルを決して容認しない。だが、不可視で、市民の生活に直接な害の及ばない、社会の最も脆弱な場所では、暴力は容赦がない。オペラの最初と最後に現われる、裸の子供たちは、そういう象徴ではあるまいか?
  • 武闘派ロシアン・マフィアの若頭みたいな面構えをしたミヒャエル・シャーデの演じるティートは、権勢並ぶものなき権力者であり、やろうと思えば何だってできる。だが、彼は何もできない。
  • それは彼が飛びきり温和な人間だから、などと云うことはまるでなくて、時折、我らが竹内力もビビる(!?)獰猛な表情を見せることからも判るように、本来、かなり凶暴な男であろう。
  • 第一幕の第四場に登場する元老院の議員たちは、観光客然とした市民たちの姿で現われ、皇帝や宮殿の中の写真を撮りまくったりするが、ティートは彫像のように王座に腰掛けたまま、少しの不快も見せることもない。ティート帝は彼らから、善良で寛大な皇帝であると評価されていて、それが彼に破格の権力を与えているわけだ。
  • つまり、ティートは総てを破壊することができる権力を持たされているが、それを大っぴらに、放埓に、自由に行使すると同時に、附与されている権力の一切を失う。
  • 私は、ティート帝の姿に、去勢されたドン・ジョヴァンニを見る。
  • ティート帝を演じたミヒャエル・シャーデも巧いが、ズボン役(男役)でセストを演じるヴェッセリーナ・カサロヴァの巧さに、心底から感心する。歌は素晴らしいし、スーツは似合うし、何と云うか、宝塚の男役トップスターの魅力がある(笑)。来日する『ばらの騎士』が愉しみである。セストの親友で、セストの妹の婚約者であるアンニオを演じるエリナ・ガランチャの男役っぷりも見事。如何にも宝塚の二番手と云う感じに見えてしまうのは、私の目の所為だろうけれど。
  • さらに、ヴィテッリアを演じるドロテア・レッシュマンが、実に密度の濃い表現の美しい歌と芝居を見せ、非常に素晴らしい。不勉強なので、このひとのことを初めて知る。アーノンクールの作る音楽もしなやかで、とても良かった。