押井守『スカイ・クロラ』を観る×2

  • 朝、早起きして、柚子と隣町のシネコンまで行き、押井守の『スカイ・クロラ』の初回上映を観る。見事な押井映画。焼肉を食べ、靴屋で靴紐を買い、再び映画館に戻ってレイトショウの切符を一枚買い、帰宅する。夕方、アルバイトに行き、終わってから独りで映画館に行き、『スカイ・クロラ』の二度目を観る。『トーキング・ヘッド』の名台詞じゃないが、押井の映画は、やっぱり二度目が面白い。
  • つくづく考えてみて、これはやっぱり、現時点での、押井守の最高傑作だと、私は思う。
  • アニメを撮るときには実写のシステムを持ち込み、実写を撮るときにはアニメのそれを持ち込むことを意識的に繰り返してきた押井守は、アニメであり実写である映画を撮ることをめざしていて、それは、私たちの「目」がこれまで慣れ親しんできた映画(象徴界としての「古典的システム」)とは異なる「何か」としての映画になるはずで、『スカイ・クロラ』とは、その「「何か」としての映画」の現在に於ける到達地である。
  • 私の「目」は時折、この映画を観ながら、これはアニメではなく実写であると誤認していた。慌てて付け加えるが、これは実写みたいに見えるCGとか、写真みたいに描かれた絵、と云うような意味ではない。私の「目」は、私の経験のデータベースに、それを表現する適当な言葉や範疇を持たないため、取りあえず「実写」のようだと判断するだけで、それは、まぎれもないアニメの画面である。寧ろ、押井守の近作で、最もアニメのほうに近づいているのが、この『スカイ・クロラ』だ。冒頭、ハンガーのソファでひっくりかえって眠っているバセットハウンドを、前作の『イノセンス』のそれと比べてみると、その線は吃驚するほど単純化されているのが判る。キャラクタの線も、ぐっと減って、思春期の男女が主な登場人物だと云うのもあるが、丸みを帯びている。西尾鉄也によるそれらの仕事は、『御先祖様万々歳』のときの、うつのみやさとるによるキャラクタ・デザインすら思い出させるくらいだ。
  • また、音が緻密に作り込まれているのに驚かされる。それは、音楽ではなく、荒野を渡る風や、風になぶられる硝子窓のかすかな震え、床の軋み、衣擦れなどの、日常の生活に満ち充ちる音だ。私たちの耳に届いているが、脳味噌がカットしてしまっている音がみっちりと聴こえてきて、それはちょっと不気味なほどだ。
  • ところで、『攻殻機動隊』を最初に見たときの驚きは、冒頭から押井守の映画に女の裸が出てきたことだったが、今回の『スカイ・クロラ』では、脆く砕け、真っ赤な鮮血を吹き散らす、臓物袋としての人体がいきなり登場する。押井守が今回の映画で、これまでとは違う何かを表現しようとしていることは、これを見るだけで判る*1
  • さて、『スカイ・クロラ』に、過去の押井の映画のなかで近いのは、『アヴァロン』である。些かトリヴィアルなことを記すなら、草薙水素が使うPCのキィの音が、『アヴァロン』のそれと同じである。キルドレたちが戦う「ショウとしての戦争」は、仮想現実の市街戦ゲームとしての「アヴァロン」の拡大版である。また、『アヴァロン』のラストのショットは、人形のような肌の少女が画面の向こうからこちらをまっすぐ視線を注いでくるものだったが、『スカイ・クロラ』も同じである*2
  • スカイ・クロラ』は、『アヴァロン』の到達した、「クラス・リアル」でゴーストを撃ち抜いた「その先」を描いている。そもそも、押井守の映画はその殆どが幽霊の映画であり、回帰する映画である。これまで押井守の映画に於ける「回帰」は、『紅い眼鏡』に最も顕著だが、同一物の回帰だった。同じものが、同じように繰り返される。しかし、『スカイ・クロラ』では、やはり回帰する押井映画の構造を持ちながら、その回帰は決して、これまでのような同一物の回帰ではない。寧ろ、その回帰する運動そのものが、同じものが一切同じように立ち戻ってくることを妨げていると云える。ドゥルーズニーチェの「永劫回帰」を解釈した言葉を拾ってみよう。

永劫回帰〉は車輪に譬えられるはずである。そして車輪の運動は遠心力を授けられており、その遠心力はあらゆる否定的なものを追放するのである。

  • 繰り返されるたび毎に差異が含まれ、繰り返されたフレーズのひとつひとつは異っていて、その異質なものの繰り返しは、やがて繰り返しそのものを破壊して、「外」に出られるのではないか……*3。これほど希望に向けて開かれた押井の映画は、これまでなかった。
  • 私は映画を見ながら、草薙水素ブリュンヒルデのようだと思った。ヴァルハラに勇敢な戦士の魂を、繰り返し繰り返し運び続けている彼女は、やがて父に背き、火のなかで眠らされて、目覚めのときを待つ。ジークフリートが彼女のところまでやってきて、その眠りが破られたとき、彼女は歌う。「あなたの知らないことは、あなたのため私が知っています。あなたの生まれるその前から、私はあなたを愛していたからです」、と。
  • 宮崎駿が『崖の上のポニョ』を『ヴァルキューレ』をベースに作ったのは間違いないことだが、『スカイ・クロラ』にもワーグナーを私は感じた。それは今年がワーグナーの没後125年だからとか何とかと云うようなこととは些かも関係がなく、宗教なき時代に、私たちを救済し得るのは藝術だけだと、音楽を作り続けたワーグナーの何かが、今もなお共振しているのではないか。
  • だが、『G.R.M.』でやりたかったことは、これで総て吐き出してしまったのではないだろうか。空母も出てきたし。押井守が次に何を撮るのか、もう愉しみで仕方がない。

*1:さらに云えば、給油のシーンは総て性交のメタファーであると云うのはキューブリックの『博士の異常な愛情』からずっと、わざわざ指摘するまでもないだろう。『スカイ・クロラ』では、何度も性交が繰り返される。

*2:土岐野と函南がはじめて出会い、窓の上と下で、画面のこちらをまっすぐ向いて会話をする。草薙がレストランの鏡(もちろんそれは私たちが注視しているスクリーンである)に映るじぶんの顔を正面からじっと見つめていると、不意に画面の外から女が入ってきて、口紅を直す。そして、その次にくる、怖ろしいほどのエロスを湛えたショット。これらの素晴らしいショットの総てが、客席のこちらを注視しているのは偶然ではないが、それは『アラザル』に掲載の拙稿に詳述してあるので、ぜひお読みいただければ幸甚。

*3:高速で回転するプロペラが機体から外れて、四方八方に飛び散ってゆく冒頭のショットを想起せよ。