『あゝ決戦航空隊』を観る

  • 昨日、実家の食器棚と戦って敗れた右足頸は、柚子に湿布を貼ってもらって朝はずいぶん良くなっていたのだが、取りあえず近所の整形外科に。たいしたことはなくて、湿布だけを貰って帰ってくる。
  • 山下耕作の『あゝ決戦航空隊』をDVDで観る。特に室内のショットは、ライティングなど、様式美が徹底された作り込みで、よくできている。この映画は謂わば演説映画で、大西瀧治郎を演じる鶴田浩二が渋い声と独特のリズムで特攻と国家を語り、菅原文太の演じる小園大佐が、まるで市ヶ谷の三島由紀夫みたいに、天皇弾劾の大演説をぶつのである。決して悪くない映画なのだけれど、脚本の笠原和夫が評するように、しかしこの特攻隊の映画には、観念はあるがリアルがばっさりと欠如している。観念とリアルの両方が撮れるのは彼だけだと笠原が推薦したのが大島渚で、会社からあっさり却下されるのだが、これは昭和49年の映画で、もしも笠原の望みどおり大島渚が撮っていたら、大島のフィルモグラフィには、『夏の妹』と創造社の解散、そしてあの『愛のコリーダ』の間に、『あゝ決戦航空隊』が入ることになるのだ。『儀式』から『愛のコリーダ』へ向かう、脂の乗り切った時期の大島渚が撮っていたら……と思うと、山下耕作には申し訳ないのだけれど、大島だったらどう云うふうに撮っていたのだろうか、と、そのことばかり考えてしまう。ナレータが佐藤慶だと云うのもあるけれど。
  • 戦争関係の本ばかりを突っ込んである本棚をがさがさ掻き回して、以前、古本屋で買った、この映画の原作に挙げられている草柳大蔵の『特攻の思想』を引っ張りだしてきて、読み始める。するとさっそくこんな記述が出てきて、面白い。

「特攻」は、「特攻的攻撃」が死を主観にゆだねているのに対して、死を客観に委ねている。(……)「特攻」は単なる「自決」ではなく、「他決」の上における「自決」である。

  • こちらでは昨夜放送された、小山明子大島渚の現在の暮らしを追ったTVドキュメンタリ*1を、ヴィデオに録画していたものを独りで見る。「大島は嘗て国家と戦った。今はじぶんと戦っている」なんてナレーションは余計だと思ったけれど、二晩続けて、単純化がうるさ過ぎるドキュメンタリをみていた所為もあるのかも知れないけれど、ずいぶん悪くないものをみた気がした。
  • 夜はアルバイトに。帰りに柚子と待ち合わせて、駅前でドーナツを少し買い、ばらばらに帰宅する。帰ってから、二晩めのハヤシライスを食べる。
  • スカイ・クロラ』とか『崖の上のポニョ』を見て、話が……って云うひとは、たぶん「映画」向きじゃないひとなんだと確信しつつある今日この頃。「お話」を語るのに都合がいいTVアニメを私がすっかり見るのができなくなったのは、たぶん「お話」に殆ど興味を持てなくなりつつあるからだと思うのだ。『スカイ・クロラ』を見終わっても、ちっとも原作を読んでみようと云う気にならないのは、そういうことと繋がっていると思うのだ。もちろん、これは、どっちがいいとか悪いでは決してないので、気を悪くしないでいただきたい。
  • MR君と電話で話す。愉快。現代の最先端の日本の批評も文学も私からは遥か遠いところにあるようで。