地図帖ヒロゲテ。

  • 誰かと一緒に暮らし始めると云うことは、その誰かに流れる時間と私に流れている時間が重なって流れ始めるようになるのを容れることを含んでいる。いつもならよっぽどのことがなければ、朝の五時十九分に寝床を離れることなどない私が、顔の真横で「しま」の頻りの鳴き声に目を覚まして、彼と一緒に階段を降りて、餌箱にカリカリを注ぎ、水を新しいものに汲みなおしたのだった。
  • きょうはずっと家にいて、MR君から頂戴したノリントンシューベルトの「グレイト」を聴いて、そのすいすいと進む音楽を意外に面白く聴くことができて驚いたり、パーヴォ・ヤルヴィがカンマー・フィルを振るベートーヴェン交響曲を、一番、三番、五番、八番と聴く。四番と七番の録音は吃驚するくらいよかったが、他のも随分いい。ちょうど五番の冒頭あたりを、後ろを通り掛った柚子が聴いていて、「わ、軽いね」と呟く。彼女は特にクラシックを聴くひとではないので、それだけ私たちの耳には、誰のものとも知れぬ演奏の、重い扉を叩く「運命」がこびりついていると云うことだろう。
  • パーヴォ・ヤルヴィはオーケストラをドライヴするのが巧みなので、先日やはりMR君に教えられてNHKで放送されたのをみた彼のブルックナーは、成るほど退屈せずに聴くことはできた。だが、しかしこの進行しつつあるベートーヴェン交響曲全集の、これぞピリオド奏法でございと云った如何にも賢しらなふうな演奏とはまるで違う、下ろしたてのぱりっとしたシャツのような気持ちのよい音楽を期待すると、このブルックナーはそうではないのだ。それは、ブルックナーの音楽そのものに起因するものなのかも知れないけれど。
  • きょうも膝の上で「しま」が横臥している。猫は私たちのように音楽を聴くことは決してしないだろう。しかし、彼の耳の鼓膜を、小さな四肢の表面を覆う無数の毛をぶるぶると震わせているだろう音を、「しま」はどんなふうに受け取っているのか?  
  • 音も立てずに、「しま」が屁をひった。しばらくすると、私の鼻腔を、案外ずっしりとした匂いが突いた。
  • どれを読んでもよいものばかりが詰まっている佐藤春夫の『退屈読本』をひっぱりだしてきて、下巻に収められた「吾が回想する大杉栄」を読む。大杉栄ポルトレとして、やはり今もいちばん見事なものじゃないだろうか。
  • 篤姫』を見ていると、お尻がムズムズしてくるような感じに襲われるのは、昔じぶんが書いていたテリングを思い出させるから。ちょっと恥ずかしい。
  • 夕食を終えて、何となくついていたTVで、『よみがえる浮世絵の日本〜封印が解かれた秘蔵コレクション〜』*1をみる。私が浮世絵のことを殆ど何も知らないと云うのもあるのだろうけれど、NHKのドキュメンタリで、久しぶりにすごく面白かった。