よく鳴く「しま」。

  • 昼、ズスケ・カルテットの演奏するベートーヴェンの「ラズモフスキー第三番」のCDをプレイヤに乗せて再生ボタンを押して、ゴダールの『カルメンという名の女』でお馴染みの最初の音が「きゅーん」とスピーカから鳴った直後、待ち構えていたかのように、いきなり外で、たぶん女の子の「ギャー」と云う叫び声が響いたのを聞いた。
  • 図書館で館内の様子を隠し撮りをさせていた大阪府知事某の品性の下劣さに就いてはわざわざ云うまでもないだろうし、こんなことは書くまでもないのだけれど、「民間ならばこの程度のことは幾らでもやっている」と云うようなことを述べたらしい彼の「民間」とは、つまり「民間企業」のことだろう。つまり彼は政治を、企業を経営するように行っている、行いたいと云うことだ。いやしくも彼が政治家を名乗るのならば、断じて政治の言葉で語らなければならない。「民間」の、経営の言葉しか持たないものは、政治家ではない。そして云うまでもなく、政治の言葉とは、嘘やハッタリを云うことではないし、ひとつのフレーズをひたすら繰り返し絶叫することでもない。政治の言葉とは謂わば、散文の言葉だ。藝術の言葉と云い換えてもいい。だから、政治が政治の言葉を失うとき、政治は、『仁義なき戦い』で小林旭演じる武田が加藤武の打本をどやしつけたように、「タクシー屋のオッチャンの事業」に成り下がる。利害関係だけで動く集団を作るなら、動物でもできる。私たちが人間をやめないでいるには、藝術を、総ての土台に据えるしかないのだと私は信じている。
  • 台所のテーブルで、日本史の問題集の空欄を鉛筆でコリコリ埋めていたら、「しま」が開いた頁の上に攀じ登ってきて、邪魔をする。
  • 夜、帰宅した柚子と、「しま」が何やら話し込んでいる。どうやら、きょう柚子は会社で、「ほんとにちゃんと考えてつけたの?」と同僚から「しま」と云う名前に就いて訊ねられたらしく、熟考に熟考を重ねた結果なのにねぇ、と、ちょっと憤慨していた。