『スーパーソニックジェットガール』は快作!

  • 柚子の部屋の床には薄くて丸い座布団が敷いてある。「しま」はその上で寝ったり、座り込んでぼんやりしていることが多い。部屋の扉が開け放たれていると、ちょうど其処から廊下が一望できるからだろう。
  • 私の部屋には座布団がない。置くスペースがないからだが、無理をして、扇風機と積み重ねた本の間の、時折「しま」が梱包材(ぷちぷち)で遊んでいる場所に、敷いてみた。しかし「しま」のお気に入りの場所は、ベランダと私の部屋を隔てる框の上なのだ。たぶん外も見えるし、日が照っていれば暖かいからだろう。ちょっと引いてあるカーテンの裾が私からの視線も隠すので、のんびりできるのに違いない。折角敷いた座布団の上には座ってくれない。
  • そして、私の部屋の隅には姿見があるのだが、その前は、本を入れた段ボール箱が積み重ねてあり塞がれていて、私は使うことはできない。しかし「しま」は本の山をぴょこぴょこ渡りながら、その前まで行くことができる。小さな背中を山なりに反っくり返らせて、鏡の向こうにいる、しましまの仔猫にパンチをお見舞いしたりしている。おーい、「しま」っちょ、それはお前だよと教えてやるが、何のこと?と云うふうな顔でこちらを見つめるのみ。
  • 夕方から出掛けて、シアトリカル應典院で、ミジンコターボ*1の『スーパーソニックジェットガール』をみる。これにはヤラレタ! まるで松竹新喜劇じゃないか!
  • ライヴ会場とか美術館の物販は基本的に大好きなので、ピンクのTシャツを買い求める。私が黄色のシャツなんか着たら、「愛は地球を救う」と間違えられるのがオチだからだ。しかし、帰宅して大変残念だったのは図柄がフロントプリントではなかったこと。ジャケットを着ることが多いので、前にドバーンとデザインしてほしかった。それだったら文句なしの百点満点だったのに!
  • やられた。
  • これは正統派の松竹新喜劇だ。
  • テンポよく、からっと笑わせて、最後は、ぼろぼろ泣かせる。
  • ヨシモト的な会話や笑いが世の中の隅々までをベタッと覆い尽くすなか、松竹新喜劇を継承してみせたのは快挙だ。
  • 噂どおり客席は満員で、難波の古本屋に寄ったので劇場に入るのがぎりぎりになり、しかも予約をしていなかった所為で私は、客席最前列と舞台ばなを隔てる隙間のようなところに案内され、これは参ったなァと思っていたのだけれど、このカブリツキが、のちのち、この舞台に於ける演劇の力の爆発の大きさを体験するには、絶好の場所だったのである。
  • 舞台が始まってすぐ、映画で云うならいちばん最初のショットだけれど、スクリーンの隅々までを埋め尽くすどアップで、なぜかテカテカ褐色肌の藤山直美風のギンギラでまんまるな笑顔がいきなり映し出されるのを想像してくれ。
  • これは実際は後藤菜穂美と云う女優さんなのだけれど、まァこんな顔がよく平成の御代まで残っていたもんだと感心するような西郷隆盛フェイスで、全開にした白い歯を輝かせながらニカーッと笑う愛嬌の豊かさに、舞台が始まってすぐ圧倒される。
  • ブサイク(←褒め言葉)なヒロインが出てきたのならば、当然それを引き立てる美女が出てくるのは常套で、テンガロン・ハットと黒皮のブーツ、そしてパンク・ファッションとバッチリメイクで鎧った、ぷりっとした唇が上にツンとした(←ココ重要)まるで『フリクリ』から抜け出してきたみたいなベーシストのおねえさん、演じるは藍原こまきで、こう云うキツメのタイプが俺は本当に好きなんだなぁと舞台の流れとはまったく無関係な感慨を抱きつつ、脳ミソがきっとシンナーと善意でとろとろになっている愛すべきコンビニ店員(弘中恵莉菜)やらカネと食い物に目がない姉妹や、ポケットの奥でなくしたまま洗濯機を廻してしまった切符みたいにモロモロになった夢をひっそりと隠して生きてる男や白塗りの未来人やポルターガイストや田舎者の青雲の志やなんかを巻き込んで、やがて女たちはロック・バンドを結成するのである。
  • 云うまでもなく、演劇が映画や小説などと異なるのは、或る拡がりを持ったひとつの空間を便宜上、舞台と客席に区切り、そのどちらにも生身の人間が乗っかって相対していることなわけで、だから演劇が他のジャンルの藝術に比べて、強烈にできることのひとつは、同じ空間を共有しているにもかかわらず、片や、闘技場のぐるりを埋め尽くした古代ローマの貴族たちよろしく「ワシらを愉しませるのぢゃ」と、客席と云う安全地帯に座って舞台を眺める人びとが保持している空間の認識に、リアルタイムで一撃を食らわせることだ。
  • その一撃の射程は、巧くするなら、世の中の常識やらシガラミやら何やらかんやら、生きてゆくなかで、知らず知らず乗っかってしまっている先入見やら臆見に揺さぶりをかけることにまで繋がり得る。
  • だからこそ、嘗て、書を捨てよ街へ出ようと唱えて演劇の上演空間を街頭に求めたひとたちがいたのであり、それとは逆に、ひたすら劇場の内側に立て籠もることで、演劇の持つ一撃の力を増加させようとする宝塚歌劇のようなカンパニーも出てくるわけである。
  • どちらにせよ、人びとの持っている「演劇ってこういうものでしょ?」と云う思い込みを攪乱させる演劇こそが、私の考える真の演劇である。
  • そして、『スーパーソニックジェットガール』は、劇場と呼ばれる空間を棄て去ることなく、篭城したままで、それを内側からバリバリと食い破り、するりと外へ繋げると云う荒技を華麗に決めてみせたのだ。お寺の真横の骨壷のようなかたちの劇場を、一瞬で、作・演出の片岡百萬両の演じるコンビニ店長の密かな夢だった、ライヴ・ハウスの記念すべきオープニング・アクトの場に変えてしまったのである。その転換の鮮やかさは、とても見事だった。
  • 指摘するまでもないことだろうが、もちろんこれは、演劇から音楽(ライヴ)への乗り換えでは決してない。演劇は、ヴォーカルの彼女がステージ上にマイクを置く瞬間まで、ずっと続いているのだ。だからこの場面では、「スーパーソニックジェットガールのうた」が女優たちによって実際に演奏されるのと同時に、「スーパーソニックジェットガール」が「スーパーソニックジェットガールのうた」を演奏するライヴ・パフォーマンスの演技が演じられているのだ。しかし、その境界の見究めは渾然として分かち難くなっている点が、またじつに演劇的で、面白い。
  • これらを可能たらしめるのが、生身の人間同士が対峙している劇場と呼ばれる空間の懐の広さであり、演劇なるものの力なのであることは、云うまでもないだろう。
  • 繰り返しになるが、演劇と云うフォーマットを徹底的に利用して、演劇でしかできないことをやり、演劇なるもののフレームを押し広げることができているものが、よい演劇なのだ。
  • この舞台に接して、これを異種格闘技戦や反則技、さらに、ライヴに至るまでの芝居が総てライヴをやるための方便になっていると批判される方もおられるようだが、それは演劇と云うものをごく狭く捉え過ぎている。
  • 寧ろ私は、此処で実現されたことこそが、きわめてまっとうな演劇の力の発現のひとつのかたちなのだ!と、声を大にして叫びたい。
  • 傑作でした。
  • 劇場で「May」のTさん、主宰のK氏と遭遇する。
  • 電車のなかで石川淳の「佳人」を読み終える。「かくはじめられた叙述の中ではもうそこからやり直すことが困難になってしまった」に始まり、「わたしの生命を隙間もなく打ちこんでいたはずのこの一夜をつい鼻の先に節をつけて唄い散らしてしまおうとは」に至る、きまじめな短距離走。そのまま「普賢」を読み始める。
  • U君と電話で少し駄弁る。『スカイ・クロラ』はもっと評価されてしかるべき映画なのに!と云う話など。