殺意の函館本線。

  • きょうは早く起きるつもりだったのだけれど、結局、それほど大した早起きはできず。
  • 昼飯を食べ、真行寺君枝沢口靖子が出ている2時間サスペンスの再放送を流しながら皿洗い。風呂に入って、ついでに風呂掃除を済ませ、洗濯機を廻し、洗濯物をベランダに干して、夜からアルバイトに。
  • 23時半、駅前のドーナツ屋で会社帰りの柚子と待ち合わせて、ちょっとお茶を飲んで、ドーナツを齧り、帰宅する。
  • きのうの豚汁の残りに饂飩の玉を放り込んで、遅い夕食をとる。
  • PCをゴソゴソやっていたら、以前書いた文章が出てきたので、載せておく。
  • タイトルは「ワーグナーもオペラも苦手だと云う、きみに。」と書いてある。
  • ハイデガーヴィトゲンシュタインで教育学の本を一冊書いた英国人の哲学者が京都にやってきた折、音楽の話をした。彼は、ジャズやクラシックを主に聴くが、いちばん好きなのはモーツァルトの『魔笛』だと云った。「あなたは?」と尋ねられたので、ワーグナーと答えると相手は判らず、困ったような顔をしている。こちらも少し考えて、ヴァァーグナーと発音すると、パッと明るい顔をして、「巨大な騒音音楽ですね」と云い、フランケンシュタインの怪物よろしく肘を横に張って両腕を突き出し、「ヴァルキューレの騎行」の旋律を唸り始めた。ンぱらぱーっぱー、ンぱらぱっぱー。
  • ワーグナーは多くのひとに聴かれている。ただし、オペラではなく、管弦楽集の作曲家としてだ。『ワーグナー管弦楽集』と云う名の音盤の録音の経験のないオーケストラなど存在しないのじゃないかと思われるぐらい、無数のCDが存在する。
  • ワーグナーの音楽は、エディソンによる蓄音機の発明から始まる、いわゆる「録音」の歴史の中で、その初期から常に主要なレパートリィの一角を成していた。しかしそこでは、『トリスタンとイゾルデ』と云えば頭とお尻、第一幕の前奏曲と第三幕ラストの「愛の死」で、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』や『タンホイザー』とは序曲のこと、『ローエングリン』は独裁者が風船の地球儀とバレエを踊るときのBGMだった。
  • では、レコード盤の時代を経て、CD、DVD、……と録音メディアが進歩してくることで、ワーグナーのオペラを、それぞれの作品の中から引っ張り出してきた管弦楽ではなく、丸ごと聴くひとが爆発的に増えたかと云えば、そうでもないと思うのだ。さっきの英国人のように、ドイツ語がバリバリにできて(私はできない)クラシック音楽超好きですよーって人にすら、ワーグナーのオペラと云えば聴き通すことができないぐらいにやたらと長くて、しかもガーガーうるさいと思われるか、或いはそのオペラを愛好した人たちのエピソード、ノイシュヴァンシュタイン城の狂王や第三帝国のチョビ髭の総統などが想起されるばかりだ。其処では、ワーグナーのオペラそのものへ耳を傾けることがなされていない。
  • もちろん、個々の音楽に対する好き嫌いの物差しが、人それぞれに存在するのは仕方がない。例えば私には、モーツァルトはそれほど特別な音楽家ではない。道頓堀を歩いていても、突然その旋律の一部が頭の中で鳴ったりはしない。しかし、私にだって、モーツァルトの音楽の凄味は充分に判る。彼の書いたオペラ、『ドン・ジョヴァンニ』や『コジ・ファン・トゥッテ』を聴いてみれば、誰にだって判ることだと私には思える。ただし、カール・ベームが指揮する音盤以外で。カール・ベームの指揮するモーツァルトは絶品と云うことになっているが、私は全然、そんなふうに思わない。ベルトラン・ド・ビリーが振っているモーツァルトの三大オペラ(さっきのふたつに『フィガロの結婚』を併せたもの)の全曲ボックスがHMVのウェブサイトで三千円以内で売っているので、それを聴いてからベーム盤を聴いてみるといい。スッカスカでカスカスの、少しも弾まない、ペタッとしたモーツァルトの出涸らしが横たわっているのが聞こえるだろう。ベームは、オペラ向きの指揮者ではないと私は思う。
  • さて、ベームの悪口はこのくらいにして、いわゆる「管弦楽集」ではなくワーグナーのオペラを、初めから終わりまで聴けば、好き嫌いは別にして、図抜けた音楽であることはきっと理解できるはずだし、ワーグナーのオペラに接することで、他の音楽や藝術ではちょっと得ることのできない、特別な体験ができる。
  • 再び述べるまでもないが、ワーグナーの主な音楽は、総てオペラである。オペラ以外にも、例えば「ジークフリード牧歌」という演奏時間が十数分の、音楽史の中で最も美しい楽曲のひとつ(ハインツ・レーグナーが指揮するCDを聴いてみるといい。私の言葉が嘘でないことが判るだろう)もあるが、やはりワーグナーの真骨頂はオペラにこそ存在する。そして、ワーグナーのオペラは演奏に、たいてい三、四時間を要する。では、他のオペラはどうかと云えば、現在もあちこちでよく上演される彼と同時代のオペラ、例えばヴェルディの『椿姫』は二時間半ほどの上演時間だから、ちょっと長めの映画と大して変わらない。プッチーニの『マダム・バタフライ』も同じぐらいの時間だったはずで、これらと比べると、ワーグナーのオペラは、やはり長い。
  • ワーグナーの生きた時代は19世紀だった。19世紀を代表する藝術を眺めていると、ちょっと偏執狂的なほどの長さで特徴づけられている作品が多いことにすぐ気づく。それは、ドストエフスキートルストイの、バルザックやゾラの小説であり、マルクスの『資本論』であり、音楽の分野に於いて、ワーグナーのオペラなのだ。神々の栄枯盛衰と神なき人間の誕生を描いた『ニーベルングの指環』と題された彼の四部作のオペラは、その上演が四夜に分けて行われる。
  • では、なぜ19世紀を代表する藝術の多くが、非常に長くて複雑な構成を持っているのかと云えば、それらの藝術家たちが、或る過剰なぐらいのヴォリュームや複雑さがなければ、彼らが表現したいものを十全に展開することができないと考えたためだ。そうでなければ世界なるものを−−その表層と、時折噴きあがってくる奥底からの得体の知れないモノまでを、きちんと描き出して解剖することも、世界を変革させることもできないと、彼らは思っていた。ちなみに、ワーグナーを偉大なる始祖に位置づけることもあり(トリスタン和音)、ワーグナーとの真摯な対決(マーラードビュッシー)を始点とすることもある、「現代音楽」と云うジャンルが存在する。現在も世界中で多くの作曲家たちが作品を発表しているが、彼らがワーグナーのオペラのような長大な作品を作ることは、ほぼ皆無だ(シュトックハウゼンのような祝福すべき例外は、もちろん存在する)。それは彼らがオペラを書かないと云うことではなく、寧ろ、それぞれの作曲家の集大成的な意欲作としてオペラが書かれることが多い。しかし、例えば、現代音楽の非常に重要な作曲家であるヘルムート・ラッヘンマンのオペラ『マッチ売りの少女』は、二時間に満たない。先ほどそんなに長くないオペラの代表として挙げた、『椿姫』よりも短い。
  • たいていの場合、現代音楽の作品は、一曲の演奏が半時間を越えることはない。それは、ワーグナーの時代と異なり、現在の私たちが既に、世界を厳密に構築することにも、劇的に変革することにも、延々と息を長く保ち、うねりながら語り続けることにも、リアリティを見出せなくなっているからだ。しかし、私たちが凝縮や速度でリアリティを構築している今だからこそ、ワーグナーを聴くことは、ドストエフスキーマルクスのテクストに接することが依然そのインパクトを失わず、汲み尽くせぬものを保持し続けているのと同様に、私たちに、なおも非常に強烈な驚きを与える。それは、現在の私たちの一般に分け持っているリアリティとは異なる、圧倒的な異物との遭遇に他ならないからだ。何ならそれは、不気味なものとの出会いだと云ってもいい。ヴェルディプッチーニモーツァルトリヒャルト・シュトラウスなど、現在も世界中のオペラハウスで上演されている偉大なオペラのどれにもまして、ワーグナーのオペラに付き合うことは、私たちのリアリティに、私たちの意識の在りように、致命的な穴を空ける。
  • しかも、オペラが上演される際には、そのたびに、作曲家が残した楽譜を手がかりに、異なる指揮、歌手、オーケストラ、演出の組み合わせによって行われる。だから、それは19世紀のワーグナーのオペラなのだが、新しく生み出される新作オペラなのだとも云うこともできる。さらに、ワーグナーともなると、膨大な過去の上演の記録が録音や映像で残されていて、CDやDVDで視聴することが可能だ。だから、現在ワーグナーを上演する人びとは、楽譜や台本と向き合って対話することはもちろん、これまでのワーグナー上演の積み重ねからの問い掛けにも応答し、さらに、百年以上も前のオペラを21世紀の現在に上演することの意味にも、何らかの回答を出さねばならない。最近、たびたび「演出の暴走」がオペラの上演で云われるが、ンなもん、ガンガン暴走すればよいのだ。ワーグナーだけでなく、総ての偉大なオペラには、どんな演出にも耐えうる力がある。それが単に暴走しているだけの演出なら、その音楽の前に軽くひねりつぶされるのがオチだし、オペラの可能性をさらに押し広げている演出なら、奏でられる音楽こそが、その演出の説得力をいや増しにし、祝福するだろうからだ。
  • 勿論、聴き手も、目の前で上演されるオペラと云う営為から(それは劇場に座っているときだけではなく、家で半世紀前の録音を聴いているときでも)無傷でいることはできない。その上演が、ワーグナーの楽譜や台本と云ったテクストからどれだけのものを汲み取ることができているか、ワーグナーのオペラの可能性を押し広げることができているか、聴き手はそれらをみずから見究めなければならない。そして、いま聴き手の前で行われているオペラが、何らかの成果を実現し得ているとき、それは聴き手のオペラへの接し方、オペラの観念そのものを更新するはずだ。
  • ワーグナーもオペラも苦手だと云うきみは、ただ、ワーグナーにもオペラにも出会っていないだけなのだ。