もどき(その三)

  • 「ふりかえると」から始まる原稿用紙五枚以内のお話を書いてみろとのことだったので、再び書いてみた。
  • タイトルは「青は進むことができる」。
  • ふりかえると、ずぉぉぉぉおおおぉぉぉぉぉぉおぉ……と、あまりに低く響きすぎて人間の耳では聴き取ることができないすさまじい音を立てて、山の向こうからやってきた水が、村のほうに向かって、滝のように落ち始めていた。お岩は峠の上から手を振って、再び歩き始めた。
  • 村に「しぐなる」が取り付けられたのは、半年ほど前のことだった。五年ぶりに、山の三つ向こうの町役場から、驢馬がようやく一頭通れるだけの幅の峠道を踏んで、ポケットのたくさんついた濃紺色の制服に金釦をジャラつかせた役人が、工事人足を引き連れてやってきた。役人は、村の真ん中の辻のド真ん中に穴を掘らせ、前面に分厚いガラス窓が嵌め込まれた灰色の箱が、縦にふたつ並んでいるものが頭についている電柱を一本突き立てると、さらに道に白で太い縞模様を描かせた。そして、電柱の根方あたりの小さな穴に鍵を射し込んでグルリと廻すと、村を去った。ふたつの箱がパチパチ、ブーンと唸り、初めに上の箱のガラスが赤く点滅し、それが消えるとすぐ、下の箱のガラスが青く点滅した。それぞれの表面には、帽子を被って、直立不動でこちらを向いている青年と、やはり帽子を被り、快活そうな横顔を向けて闊歩している青年が、赤と青の電光を背景に白く浮きぼりにされて、映っていた。ふたりには、顔がなかった。
  • 村人は、何のことやらさっぱり判らなかったが、「しぐなる」をよく守った。赤の点滅で道を渡るものなど、ひとりもいなかった。だがお岩だけは、辻の角に立って、横断歩道を渡ることさえなかった。赤の「しぐなる」氏から青の「しぐなる」氏に、そして青の「しぐなる」氏から赤の「しぐなる」氏に変わるのを、朝から晩まで、凝っと見つめていたからだ。
  • お岩は、年のころ四つか五つくらいの幼女だった。この村が開拓されたときからずっと、此処にいる。この谷間は嘗て湖だったのだが、三百年くらい前の、のちにこの村の最初の村長になる男が、お岩を、ざンぶ、と湖に放り込んで、山の向こうに湖水を追い払ったのだ。湖の水が子どもを嫌うのはよく知られており、このあたりでは、まことにありふれた昔話である。
  • さて、朝から晩まで赤と青の両「しぐなる」氏の明滅を見つめていたお岩は、或る夜、声が聴こえるようになった。その声は、横顔をみせて歩いている青の「しぐなる」氏だった。彼はお岩に、山の向こうの向こうにある町と云うやつの素晴らしさを語りに語った。無論、彼が話をすることができるのは、青の明滅のときだけだったのだけれど。すると、その後に明滅を入れ替わった赤の「しぐなる」氏が、お岩に向かって、「お嬢ちゃん、青い奴の云うことを決して真に受けてはいけないよ」と、諭すのが常だった。お岩は、いつも黙って頷いた。
  • ところが村が寝静まった或る日の夜、「僕が町に連れて行ってあげるから、ココを開けておくれよ!」と、青の「しぐなる」氏がお岩に頼んだ。お岩は足許の石を拾って投げ、青い明滅のするほうの箱のガラスを割った。破れ目から、すてん、と、青の「しぐなる」氏が転げ落ちてきた。彼は、ガラスのおもてに映っていた、そのままの姿だった。
  • 赤の「しぐなる」氏はバチバチと火花を散らして、必死になって止めたが、まるで聞かず、ふたりは手に手を取って、村の出口へと走り出した。村を取り囲む山々の木々の葉叢で眠っていた鳥という鳥は老いも若きも雄も雌も一羽残らず飛び起きて、ギャアギャアと喚き散らして羽をばたつかせ、まだ払暁まで少し時間のある墨染の空へと、飛び立って行った。木々は根をぶるぶると震わせて逃げようとしたが、永い間にすっかり地面に寛いでしまっていて、もう駄目だった。
  • お岩と、やっぱり横を向いて快活に歩いている姿のままの青の「しぐなる」氏がようやく村を一望できる峠についたとき、嘗て湖の底だった村へ、のびのびと朝陽が挿し込んできた。もうじき村の真上に達する巨大な透明の瀑布の裾から迸る、盛んな飛沫が、陽光にキラキラと輝いていたが、村からそれをみていたのは、赤の「しぐなる」氏だけだった。