「黒の舟歌」を唄います。

  • 皿を洗っていると、「しま」が温かいのだろう炊飯器の上にちまりと坐って、こちらを見上げている。そちらを向いて、「しま」の顔を見ていると、思わず破顔一笑してしまう。それは、まったく我知らずのことで、些かの意味も附帯していない笑みだった。顧慮も意図も期待も何も含んでいない笑みを、じぶんが洩らすことがあるのに、私は、少し驚く。
  • 昼、昨夜、柚子の作っておいてくれたキーマカレーを食べ、お茶を飲んで、温かいので「しま」を抱っこしてTVを見ていたら、世耕弘成がクソえらそうなことを喋っているのをみて、バカは死ななきゃ治らないのだなあと失笑。
  • PTAの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』をDVDで再び眺める。
  • 秋山邦晴の『日本の作曲家たち』を読む。秋山の同時代の音楽を論じた夥しいレポートは、きちんと纏めて読み得るようにしておくべきではないのか?
  • 雨。夜になって出かけて、隣町の本屋で京都から帰ってきた柚子と待ち合わせて、そのままいつものスパゲティ屋でいつものと同じものを註文して、夕食。帰りには、もう雨は止んでいた。
  • 帰宅後、アラザル同人諸氏とSkype大喜利。Y監督(他の現場で暴れるのは、自身の新作を撮るしかない状況へみずからを追い込んでいるのに違いないと期待しつつ南米の精神分析)も初参加。
  • 現代の日本の批評の最先端なるものは、愈々、社会学(的な革命思想)に席巻されてしまったとのことで、すっかり私にはもうどうでもいい場所になっているみたいだ。何しろ、黴臭い古本に顔をうずめているだけで、充分に私は満たされているからだ。成るほど、これは大変なマチズモであるだろう。しかし私は、私の本棚のことに就いては、マチズモで一向に構わないと思っている……なんて、ぼやぼやとした感想を持つ。
  • 夜中をズンズン過ぎて朝方まで、皆がカタカタカタカタカタカタカタカタとキィボードを叩いている音が重なりあって、灰色のスポンジにくるまれた小さなヘッドフォンを通して左耳の鼓膜を震わせるのが、とても面白かった。
  • payumu君が先日、mixiのことを書いていたので真似をしてみるが、mixiの、小林秀雄グループ唯一(?)の生き残りの或る批評家のコミュニティで、批評文と情報(ディスク・ガイド)の違いが、これっぽっちも判っていないひとがいて、ちょっと吃驚する。イヤ、正直に書けば、何て下品なのだろうと、つい、思ったのだった。云うまでもなく、情報とは、読み手も、書き手と同じ「或るもの」に触れ、追体験ができると云うのが前提だが、批評とは、その文こそが、読み手が触れる「或るもの」そのものである。このあたりのことに就いては福田和也の「批評私観」を読んでいただければよいのだが、そんな区別もできないでいて、日本は欧米に比べて百年は遅れているなんて大声で喚き散らす御仁がいる場所からは、さっさと退散するのが懸命で、私はポチリと、そのコミュニティより、黙って退会したのだった。