批評の赤っ恥。

  • ゴミ棄ての日なので少し眠ってすぐに起き出し、しかも町内会の当番なので、ゴミ棄て場の掃除をちょこちょことして、朝が始まる。
  • 昼、家の外からカラスが、「ぐぎょーぐぎょー」と太い声で奇妙なリズムで啼いているのが聞こえてくる。「しま」は、ベランダに続く上がり框に飛び乗り、硝子戸と、その向こうのベランダの柵越しに、空を注視している。私からカラスの姿はみえない。「しま」の後ろから、彼の背中に「何か来てるの?」と尋ねると、こっちを振り返り、双眸を真ん丸にして、「きゅう、きゅう」と、何事かを囁くのだった。
  • 七時から梅田に出て、忘年会。某劇団主宰、F大兄夫妻、それからもうひとり、私は以前にお会いしているらしいがさっぱり覚えていない、某主宰氏や柚子の嘗ての同僚であると云う女性と、柚子、それから二時間ほどして弟とH監督もやってくる。
  • 私は批評に就いて、何かを評価すると云うことに就いては、じぶんのこれまでの(どちらもスカスカだが)体験や知識の全体重を乗せてやってきたつもりで、それだけ赤っ恥もかいてきたつもりであるけれど、俺の批評は、そう云うふうには受け取られてないんだなあ、と凹む。いわゆる「お藝術好き」に、私がみえるひとには、みえるわけだ。藝術がなければ人間は存在しないと私は思っているけど、それは「趣味:アート鑑賞」とは違う、人間なるものの存在の根底に関わる、取り替えの効かないものだと思っているのだけれど、そんなもの全然判らないよと云うひとは、これっぽっちも響かないんだな、と、ぐさりと思い知らされる。
  • だが、それはしかしまだまだ批評文の書き手として、私が恥を晒し足りない、と云うことでもあるのだろう。上っ面の批評文しか書いていないと云うことなのだろう。この認識を得られ、何かすっきりと、さばさばした心地になる。同時に、成るほどこちらの罵詈雑言が過ぎて、強烈な反撃を与えられただけなのかも知れないが、いわゆる藝術なるものはつまらない、お前らが褒める藝術なんてやろうと思えばいつでも幾らでもできるさと頭から決めてかかっているひとはいると云うこと、−−それはつまり、他のひとには判らないが、こちらだけはスルリと理解して、ああ、アレのことだね、と、ニヤつくことができればこちらが或る作品を評価すると思われていると云うことで、それは俺が批評をすると云うことが、野蛮人を陰で嘲笑するためにワザとややこしくしている、宮廷の食事の作法のようなものだと思われていたと云うことで、本当に口惜しいと云うか、じぶんがなさけないと云うか、腹が立ってどうしようもないとも云えるのだが、やっぱり、そんなふうに思われていたじぶんの文を恥じるしかないのだろうけれど、私が判るか判らないかは、本当に、私が或る作品を評価するためには、どうだっていいことなのだ。寧ろ、私が所持している判る/判らないの基準枠を破壊してくるようなもの、そのフレームを破壊するのではないが、これまで誰もやったことがないようなやり方で徹底的に磨きあげたり、読み替えたりしているもの、そう云うものに出会ったときに、私は感動するのであって、批評したくなるのだから。だから逆に云えば、私が評価しないものは、認識のフレームにただ安易に乗っかっているだけのもの、些かも其処からはみ出すもののないもので、どれだけ其処に藝術ですヨと大書してあっても、絶対に駄目だ。また、何かの賞が獲れたか獲れないかで、或る作品の価値を測ると云うような発想も(もちろん獲れるなら獲ったほうがいいのである。賞なんて意味がないと云いたいのでは全然なくて、賞が意味を持つためにも、獲れるなら獲るべきである)、本当にあるのだと云うのを知り、ちくちく、ざらざらとした疲労が夥しく残り、ぐったりとくたびれ果てて、帰宅後、ひたすら爆睡する。