本を読む、きょうも。

  • 図版を眺めながらのんびり読んでいた、長澤均の『昭和30年代モダン観光旅行』を読み終える。
  • 長澤は、無数のカルチャーが交錯した20世紀デザインの運動を猛烈なスピードで描いた『パスト・フューチュラマ』の著者で、最近は'60年代ロンドンのファッションの伝説「BIBA」に就いての、多数の図版を見事に活かした評伝で有名だろう。だが、これは昭和三〇年代に日本各地の観光地で夥しく発売された、おみやげ用の絵はがきを巡る本なのである。
  • 長澤に拠れば、「絵はかぎには情報がない」のだが、この本では、毒々しいほどのあざやかな色彩(それはキッチュ以外の何物でもなく、まさに正しく、この世のものではない美である!)で刷られた絵はがきの画面から始まって、秋田蘭画司馬江漢が作り出して近代日本の洋画から風呂屋のペンキ絵までを貫く「日本」の「風景」を論じ、ポール・ヴィリリオの『速度と政治』を成瀬の『秀子の車掌さん』と衝突させて読み解き、「ボンボン」としての小津映画と日活無国籍アクション映画のモダニズムを解体するのだ。そして、それらの運動はキチンと、絵はがきの画面の集積の上に立ち返る。
  • あらゆる手練手管を用いて捏造され、その擬製こそが私たちのノスタルジィの対象であり水源となっている懐かしの昭和なるものの風景のフェイクの起源を、長澤は自身の膨大なコレクションの絵はがきを用いて、暴きつつ、しかし同時に、偏愛するのだ。(遊園地、動物園、温泉地、ケーブルカー、ロープウェイ、ホテル……図版の脇に添えられたテクストには、「これは既に現存しない」の文字が夥しい。廃墟ですらなく、既にすっかり掻き消されてしまっている戦後日本の風景……。)
  • この怜悧な解剖と、掌の上での愛玩との二重の姿勢が、この本を、謂わば『パスト・フューチュラマ』の優れた続篇、戦後日本に於ける応用篇として成立させている。これぞ、カルチュラル・スタディーズの精髄。大変愉しく読むことができた。長澤均は、もっと読まれていい。
  • 洗濯機を廻し、洗濯物をベランダに干し、食器を洗い、風呂を洗う。柚子が帰ってきて晩御飯を作ってもらって食べ(酢豚と餃子。美味)、食器を洗い、はやく寝る。蒲団からはみ出した私の足の指を、「しま」が齧る。。。。。。。