京響第526回定期演奏会を聴く。

  • ちょうどMR君と入口で一緒になる。大野和士の、プレトークの終わりの部分だけを聴くことができた。ショスタコーヴィチの「第八」は高く評価しているようだったので、いちど聴いてみたい。MR君に、ケージとショスココーヴィチの話を聞きながら、座席に移動する。MT君とI嬢はもう来て坐っていたが、私たちの買った座席のあたりが、すさまじいブッキングで、些か驚く。
  • 若杉弘の追悼として、バッハの「G線上のアリア」が演奏会の始めに奏された。音を外に向けて拡げてゆくのではなく、胸でそっと抱きとめるようなふうで、優美で美しい円を描きながら、最後に、鳥が広げた翼を折りたたむみたいに、すっとその環をとじてみせる。
  • 続いてラヴェルの「ラ・ヴァルス」。各々の細部も極めてくっきりとみえるように描きながら、全体の像としては、大変デモーニッシュな混沌の相。大野は決して、どちらかを疎かにして音楽を作ることがないのが、大変好ましい(並の指揮者は、そのどちらかしかできない。或いは、どちらもできない)。大野の奏でる「ラ・ヴァルス」を聴きながら、ふと、サム・ペキンパーのヴァイオレンスを想起する。
  • ラヴェルの「マ・メール・ロワ」。その表情の変化の細かさと大胆さに驚く。まるで、マーラーの『大地の歌』を聴いているようだった。大変感動する。
  • 休憩を挟んで、ショスタコーヴィチの「五番」。オーケストラが、懸命に、大野の棒に喰らいついていっているのがよく判る。しかし、大フィルはみずからを解体寸前まで追い込んでいたが、其処までの気迫は感じられなかったのが些か残念。
  • 大野和士は、カルロス・クライバーを遥かに超えるだろう。
  • 地下鉄の駅でM2両君とI嬢が、くっきりと名づけられ、コミュニケーションの道具として洗練された音楽の言葉で、さっきの音楽会で奏でられた音楽の相を話しているのを、聞きながら、そのまま京都駅へ出る。
  • 東下りするI嬢と別れ、M2両君と帰りの電車に乗る。MT君と、彼がその最寄駅で降りるとき、突然ハイタッチをして別れる。
  • 帰宅して、真夜中、台所のゴミ箱を洗う。それから風呂に入る。
  • 風呂から出ると、「しま」が「もってこいゴッコ」をしようと、メモ用紙を丸めたボールを銜えてやってくる。こちらがサボって、途中で投げるのをやめると、小さな声で「にぃ」と鳴いて、せがむ。そうすると、投げないわけにはゆかない。深夜三時、ボールを追って、「しま」がダッシュで階段を駆け下りる……。