風が強い一日。

  • 朝、ミカエル・レヴィナスリゲティと自作のピアノ曲を弾いて入れたCDが届き、ずっと聴いている。大変好ましい。
  • 昼過ぎ、やまもも君から電話。少し駄弁る。話の途中で、「断片としてあるか、小宇宙としてあるか」と云うようなことを口走ってしまったのだが、それはきのう読んだ中野重治の「小さな回想」に出てくる、芥川の文藝を評した次の部分を引いていたのだ。

ある意味では生涯断片ばかし書いてきたという風に見てもいいように思う。ただ彼の中の作家の神経がそういう片らまで残らず丹念に仕上げさせていたのだ。(……)彼はすべての断片をみがき上げたが、どれも、みがき上げられたものが断片でなかつた時でさえ小宇宙ではなかつた。そういう点では不幸な−−不幸なというような言葉は馬鹿げているが−−藝術家だつたといえるかもしれない。たとえば作者自身でも自分を対比さしていたと思える志賀直哉についてみてわかるように、志賀の作品は大体からいつて、断片に見えるものさえ小宇宙をつくつていた。そこに或る調和があつた。そしてこの調和が芥川の切に求めて得られなかつたところのものだ。(……)しかしこの調和は制限つきのもので、彼らの生きた時代の苦悩を癒せるものではなかつた。

  • アルバイトに行く。三時間ぶっとおしでお客さんが来ず。楽をさせてもらいながら、その間、本を読んでいる。小島信夫の『抱擁家族』を読み終える。「家」をめぐる小説であるが、その「家」の近隣の住人と云うのが一切出てこない。そして、それは、「家」の作り変えることが「もっと大きな塀がほしい」、「かこってしまうんだ」から始まることに繋がっていて、この感覚は、どうやら私にはとても親しいものである。だから、この小説に出てくる妻の憤懣の噴き出しかたにも、率直であろうとすればするほど腐臭を放ちだす夫の姿のどちらにも、私は私自身のツラをみせられるような心地がした。寧ろ、この小説以降、私たちはこの小説のようになってしまった、と読むこともできよう。もちろん、こういうような読みかたでなくても、この小説の登場人物たちと同じく、この小説自体がきわめてぐずぐずになっていて、しかしどれだけぐずぐずになっていても、それを小説と云う表現を用いることで、私たちとの間にぎりぎりのところで繋がりをつけていられることができる。そういう意味で、小説は肯定されている。大変ぶっきらぼうな文体であるが、これをよしとするのは、すさまじい腕力であり、生半なことではなかったろうと思う。迂闊に真似ると、とんでもないことになる。しかし、梅崎春生野間宏と同じ年に生まれている作家だったのは少し意外だった。卒業論文サッカレーに就いてだったらしく、読んでみたいと思った。MR君に訊いてみよう。
  • そのまま江藤淳の『アメリカと私』を読み始める。「実際、他人を自己の投影としてではなく、純粋の他人として理解することはむつかしい」と、短い間で二度も書く江藤は、つまり、それがすっとできたひとでは決してなかっただろう。そういうふうなひとの怒りと云うのは、たぶん、一見すると理不尽なものにみえるのだが、しかし本人にとってはまるでそうではなくて、裏切られた!と感じて怒りは発する。だからこそ、そういう「私は、だれにでも友人になってもらうのはいやだった。友人同士とは、相重んじる二人の人間のあいだの関係である。私たちはまだお互いに相重んじるだけのデータを持っていない。もし、私たちがいつか友人になることがあれば、それはすばらしいことであるに違いなかった」と書くのである。
  • 帰宅途中に立ち寄った閉店間際のスーパーで、ココナッツミルクの缶が、ひとつ78円で売られていたので、何となく、ふたつ買い求める。もちろん私が何かをつくるわけではない。帰宅して、柚子とカレーを食べる。牛乳がなくなったので、買いに出る。ついでにコンビニで、あさっての松下眞一の演奏会のチケットを発券してくる。雨がぱらぱら降ってくる。
  • 真夜中、134君と女子フィギュアの公式練習を互いに見ながら、Skypeのチャットで駄弁る。ラフマニノフの《鐘》を使うくらいだったら、黛敏郎とか伊福部昭の曲のほうに、ずっといいものがあるんじゃないのか、といつも思う。タチアナ・タラソワNAXOSの「日本作曲家選輯」などを、どかっと纏めて送るべきではないか。