スペクトルのほうへ

  • 少し温かくなってきたからか、真夜中ずっと、何処かで猫がなァぉなぉアと鳴いていた。
  • 朝は六時半に起きて準備をしてMR邸へ向かうが、信号機の故障だとかで電車がずっと止まっていて、やはり少し遅れる。ところで、MR君の家の近くは鉄塔が多いのが、とても素敵である。MR君の家までくると、庇の上で一匹の猫が盛んに鳴いていて、彼の部屋からはグリゼイの《音響空間》が聴えてきた。きょうはK先生を講師として招いたスペクトル楽派勉強会の第二回なのである。以下、メモ的に(つまり、これは私の理解の範囲であり、K先生の言葉そのものではない)。
  • アンチ・ブーレーズ、ポスト・ブーレーズの模索として、音をどういうふうに捉えるかに挑んだひとつの流れがスペクトル楽派。その特徴はジェラール・グリゼイの作品に最も顕著である。(聴き手は、彼の作品に於いて、じぶんが今、何を体感しているのかをきわめて明瞭に捉えることができる。協和から不協和への漸次的な変化など。グリゼイはそういうふうなつくりかたを意図的に行っているからである。ブーレーズらのセリーでは、聴取だけでは今どのような変化が起きているのかをきちんと捉えることはきわめて困難である。それに対してグリゼイは例えば、私たちが日々それを行っている(よく知っている)「呼吸」をその音楽に演じさせる。)
  • 上記のような「きちんと」書くグリゼイに対して、なるほどテクニカルなアナリーゼでミュライユを解剖することは充分に可能であるが、しかしそれはグリゼイの作品ほどには有効ではない。ミュライユを「積極的に評価する」(K先生のこの言葉に、私は大変びりびりびりっと響いた)のならば、其処からこぼれ落ちるものへのまなざしが必要となってくる。
  • 黛敏郎の《涅槃交響曲》は鐘の音をスペクトル分析して、それをオーケストレーションしている曲である。この試みそのものは、大変先駆的であり、スゴイと云うことはできる。しかし、この曲では十二音音楽の技法なども用いられており、云わば、折衷的な書き方がなされている。スペクトル楽派の音楽とは、鐘の音をスペクトル分析をして、それを器楽で真似ることで終わるのではない。その分析は出発点であり、分析のその先で、加算合成や推移(変化のない持続的な推移ではなく、繰り返し変化してゆく推移)を実現し、まるで、顕微鏡で一〇〇〇倍に拡大してみせるようにして、「音」をとらえなおすことに、その真骨頂がある。折衷を目論んで作品が作られるとき、それは突破する力を失う。新しい音楽なるものの99パーセントの要素は既成の音楽にある。しかし、残りの1パーセントが、パラダイムシフトを導く。歴史の重みを感じつつ、歴史から存分に学びつつ、しかし、折衷ではなく、歴史との間にどんな一歩をつくりだすのか。その一歩は、どんな一歩なのかを問うこと。(K先生をきわめてシャープな技巧派の作曲家であると、漠然と捉えていた私には、それらの発言は意外な驚きだった。寧ろその歴史と創作に関する認識は、私ときわめて近いものだからだ。)
  • フェルドマンの音楽もまた、ポスト・セリーの音をとらえなおす試みのひとつ。「音楽にとっては、構造が大切である」と述べた彼は、決して同一物の反復というようなミニマルな音楽を書いたのではなく、「ゆらぎ」がきちんと考えられ、捉えられ、書き込まれている。フェルドマンが図抜けているのは、自然の「ゆらぎ」を、大変見事なかたちで譜面に書き記すことができているからである。
  • K先生を駅まで送る。その途中iiさんとばったり遭遇して、合流。その後、皆で中華料理屋で晩御飯を食べる。美味。大変満足して帰宅する。