『マイレージ、マイライフ』をみる。

  • 朝起きて(正確には「しま」に起こされて)風呂に入り、『シネキャピタル』を読む。
  • 夕方から出かけて、ミント神戸ジェイソン・ライトマンの『マイレージ、マイライフ』をみる。
  • 映画が終わって、私の近くに坐っていたカップルの男のほうが、「救いのない映画だった」と云い、女が「ん? そうかなぁ?!」と、薄く、しかしあからさまな疑義を呈していたが、これは云うまでもなく女のほうが正しい。この映画は、救いがないのではなく、誠実なのである。
  • リストラの宣告を生業とするジョージ・クルーニーがいる。しかしそれは、彼の会社の従業員を解雇するのではなくて、縁も所縁もない会社で、リストラ宣告の瞬間まで顔も知らない従業員たちを、彼らの雇用者に代って、解雇するのである。だから、ジョージ・クルーニーの佇まいと声を持つ彼は、常に誰かの代理でしかない。つまり、其処にいるが決して其処にはいない(これはこの映画のなかで、とても重要な要素となっている)。
  • 彼は、アメリカじゅうを飛行機で飛び回っていて、乗り継ぎの空港をじぶんの「家」であると呼ぶ。雲のなかを飛び、陸地に降り立つと誰かの代りにクビ切りをして、再び雲のなかに帰る。そして、雪の降る夜、ロング・ショットでホテルを捉えた窓のひとつだけに、灯が燈っていて、その矩形の明るさのなかに、彼がぽつんと坐っている。まるで、そのとき、彼は宙に浮いているようにみえる。
  • つまり、ひととひとの関係のなかで彼は生きているが、できるだけ注意ぶかく、ひとと深い交わりをしないようにしていて、または、そういうふうに生きているのを静かな笑顔と共にみせるから、まわりの人びとも彼をそのように遇するため、やはり、そういうふうに宙に浮いて生きることを続ける彼はつまり、云うまでもなく、天使である。
  • では、このフィルムは、天使が人間になる映画なのかと云えばそうではなくて、それがこの映画の誠実さに繋がるのだが、天使が、天使であることをそんな簡単に棄てられるはずがない。天使は、映画の終わりで、ひとりの若い女を救う。しかしそれは彼が天使をやめることによってではなく、其処にいるが其処にいない天使として、その天使の力能を最大限に発揮することで、それを行うのである。つまり、画面の外から、其処には決していないクルーニーの声だけが響いてくるのである。
  • 映像は端正だし、偽善的なインチキもなく偽悪的な見せびらかしもなく、役者たちは皆丁寧な仕事をしている。しかし、監督のジェイソン・ライトマンは1977年生れなのか……。
  • 途中の駅でおりて、DVDを返却する。帰宅して、柚子が焼いてくれたお好み焼きを食べる。
  • 真夜中、U君とserico嬢と、『罪神』のヴィジュアルを打ち合わせる。