『借りぐらしのアリエッティ』をみる

  • きょうは何だかひどく暑い。
  • 昼過ぎからアルバイトへ。夕方から電車で三宮まで出て、慌てて古本屋へ。きのう帰宅してから本棚を捜したがやっぱり見つからなかったマンディアルグの『狼の太陽』(そもそも昔、中学生くらいのとき、三冊まとめて買った記憶があるのだが、手許に残っている(?)のは『黒い美術館』だけだった)は、まだ残っていた。
  • 会社帰りの柚子と待ち合わせて、モスバーガーで晩御飯を食べて、ダイエーの上のジュンク堂をぶらつき、ミント神戸のレイトショウで、米林宏昌の『借りぐらしのアリエッティ』をみる。じつにつつましやかなフィルムだが、しかし画面の細部はとても充溢していて、のびのびとしていた。
  • 特に、人間の家の床下で暮らしている小人の少女アリエッティが、初めてその家のなかを、父親のお供で「借り」(周到に「狩り」の音が避けられているのが可笑しい)に出かける一連のシークェンスがよかった。小さいが、よく手入れされていて、頗る合目的的な数々の道具を駆使して、アリエッティの父(声を三浦友和があてているのだが、とてもいい)が、どんどん障害物を乗り越えて進んでゆくアクションの連続が、大変気持ちがよいのである。
  • そして、アリエッティたちが暮らしている屋敷へ療養にやってきた人間の男の子が、アリエッティと、葉っぱ、ちり紙、網戸などのシェード越しに出会うそれぞれのシークェンスは、どれも、殆ど官能的ですらある。
  • しかし同時に、このフィルムは何処か不吉でもある。突然、種の滅びを少年は薄い笑みを浮かべながら滔々と語るし、屋敷で働く初老の女中さんが、小人たちを捕獲しようとする激しい情熱の根の見えなさには、ちょっと、ぞっとさせられる。ちなみに、脚本は宮崎駿である。
  • アリエッティは実に魅力的な女の子なのだが、これまでの宮崎駿のヒロインたちとは、何かが根本的に違う。このあたりは、私には手に余ることなので、畏兄N波さんのブログを*1
  • 映画が終ったあと、隣の席の大学生くらいの女の子ふたりが、「で?」、「何かよく判らん」と云いあっていたのに、ちょっと驚く。
  • 柚子とふたり、クレープが食べたくなり、しかたなくコンビニで、バナナとチョコレートのクレープと、マンゴーと杏仁豆腐のチーズケーキを買って、鈍行で帰宅する。
  • 電車のなかで、マックス・ウェーバーの『職業としての政治』を読み終える。
  • 有名だが、決して、よく整理されているテクストと呼ぶことはできないだろうが、ルターが述べたらしい、「こうするしかありません、わたしはここに立っています」を引きながら、「暴力という手段を行使して、責任倫理という道を通って実現される」政治なるものを説明してゆくウェーバーの言葉は、ちょっとニーチェのような色を帯びて、きわめて勁い。
  • 合理を徹底した最後には、これが最良のベターであると信じる何かを選ばねばならない。つまり、「結果にたいする責任を実際に、心から感じていて、責任倫理のもとで行動する」ということだが、もちろんこの選択は、窮極的には、如何なる支えもない。それに耐えて、敢えて選び取ることこそが、成熟であり、生きることなのだろう。
  • 『エッセンシャル・マクルーハン』所収の「プレイボーイ・インタビュー」を読み始める。
  • 帰宅して、紅茶を呑みながら、ふたりでさっき買ってきたお菓子を食べて、「しま」と三人で、少しのんびりする。
  • serico嬢とSkypeで少しチャット。
  • 夜中、Bさんとチャットする。愉快だったのだが、真夜中、いきなりがくりと眠ってしまい、落ちる。