殿村ゆたか劇場『スローなブギにしてくれって言ったのに』をみる

  • 仕事を終えてから梅田まで出て、中崎町のコモンカフェで、殿村ゆたか劇場+メロン・オールスターズ『スローなブギにしてくれって言ったのに』をみる。脚本は二朗松田、演出は泉寛介。メロン・オールスターズはジャズバンドで、彼らの演奏をバックに劇中、役者たちが戦後のポップスを唄うのだが、そのたびにジャズメンたちが伴奏するというのではない。彼らが演奏せず、役者だけが唄うという箇所もしばしば存在する。この舞台では、彼らは単なるBGM発生装置ではなく、きわめて的確に演出されているからだ。
  • まず最初に、主演の西原希蓉美が唄うとき、それはジャズバンドと共に唄われるのだが、ただしこれは劇中では、彼女が唄っている歌ではなく、彼女が聴いているラジオから流れてくる歌として在る。
  • 私たち見物の目の前で、ひとりの女優が見事な歌を唄っていて、それを私たちはちょっと驚きながら聴いているのだが、この「演劇」の空間を共有しているかぎり、この歌は、彼女が唄っているのであるけれどしかしそうはなくて、彼女が聴いている歌として在るのである。今ここで総てが起り、後戻りなく進むしかない演劇にしか、これはできないことだろう。
  • そして芝居の終わりのほうで、中崎町のスナックで、再びヒロインがカラオケで歌を唄うという場面があるのだが、このときやはりジャズバンドも演奏する。本当なら、これはカラオケの音であるべきはずで、たとえばこの場面より以前に、殿村ゆたかがカラオケを熱唱!という箇所では、ちゃんとカラオケ音源は用意されている。では、どうして此処ではジャズバンドが演奏するのだろうかと云えば、それは、ジャズバンドの奏でる音は、「夢」そのものであるからなのだろう。見物の目の前に、ずっとジャズバンドは控えているのだが、「演劇」の空間としては、彼らは基本的にはそこにはいない。しかし彼らの奏でる音は「演劇」の空間に洩れてくる。そしてもちろんこの「演劇」の空間にそれは必須のものでもある。云うまでもなく、この二重性もまた、演劇がよく表現し得るものである。
  • 二朗松田が書いたこの芝居には、人びとがそれぞれの人生で抱く「夢」とは何なのか、また、その怪物とどう付き合ってゆくか、という問いが軽妙な音楽劇の裏に透けているのだが、登場人物たちとこのジャズバンドとの関係性のありかたに、それは最も濃く滲み出ていたように思う。二朗さん、いい芝居を書いたなあ、と思った。
  • ローラン・ビネの『HHhH』を読み終える。ジョナサン・リテルの『慈しみの女神たち』への批評が挿入されていて、あの小説の主人公に「真実味がある」のは彼が「あの時代の鏡」だからではなく、「僕らの生きている時代の鏡だからだ。手短に言えば、ポストモダンのニヒリストだということだ」とあり、まったく同意見。しかし『慈しみの女神たち』も、この『HHhH』もまた、「あの時代」の小説であるということが面白いし、このあたりが歴史小説(精確には「歴史・小説」か)の可能性だろう。