『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』と「黒田清輝」展をみる

  • 朝起きて、風呂に入り、洗濯物を取り込んでから、昼前には出かけて梅田のステーションシネマでコーエン兄弟の『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』をみる。いろんなものがインサイドとアウトサイドの境界でせめぎ合っているのだが、ときどき、その境を、ぽん、と飛び越えてしまうことが起きる。それは猫だったり、橋から飛び降りてしまう仲間だったり、出産や就職や友達の彼女と寝てしまうことだったり、いろいろであるが、とにかく、後戻りはできない。しかし、飛び越えることが起きてそれが後戻りができないことなら、境界を飛び越えずに留まるということも同じように起る。それは、扉を閉めてしまうことだったり、二又道のあちらを選ばないことだったりするが、こちらもまた決してやりなおしがきかない。だが、やりなおしがきかないということは、それらが再び戻ってこないということを意味しないし、インサイドとアウトサイドのせめぎあいや浸蝕がそれで終るわけでもないのである。猫は何度もやってくるのである。そして、『バートン・フィンク』をもういちど組み立てなおした映画のようでもある。
  • 阪急グランドビルの紀伊國屋須田亜香里一万字インタビュが載っている『BUBKA』の最新号を買う。それを読みながら阪急で烏丸まで出て、京都文化博物館の「黒田清輝展」をみる。《湖畔》の画面は勝手に大きなものだと思い込んでいたが決して大きくはなく、また、その表面は油彩なのにパステルのような塗りでとても薄かった。《智・感・情》は、実に凄味のある絵だった。
  • 黒田の大作は大東亜戦争のとき、燃失してしまったものが少なくない。その制作のために描かれた習作はたくさん残されているが、肝心の作品は失われている。日本近代洋画の大きなメルクマールのひとつである黒田清輝の作品さえ、既にその全部をみることはできないのである。作り手の意志も、見る側の意識とも全く切れた場所に、美術作品というものが在る。
  • 帰宅して皿洗いをしてから、柚子と晩御飯を食べる。柚子が紅茶を淹れてくれて、羊羹をちょっとすづ切って食べる。
  • 七月は、欠かさず日記をつけてみようと、ふと思う。続くだろうか?