• 朝から近所の歯医者に行く。そのままもうひとつ病院に行こうかと時計をみるが、もうじき閉まるので家に戻る。ぶらぶら歩きながら写真を撮る。いちど帰宅して、パスタを茹でてミートソースで食べる。台所で洗い物をして、洗濯機を廻す。ベランダで洗濯物を干すが「しま」は暖房にあたっていて、やってこない。
  • 夕方からまた出かけて病院に行く。採血される。元町の古本屋を廻ろうかと思うが、また今度にして、家で、ストローブ=ユイレの『アンティゴネ』のDVDをひっぱりだしてきて、みる。途中少し眠るが映画館でみるときのように「しかたがない」と巻き戻さず最後まで。当たり前なのだがこの作品のフレームは映画であって決して演劇ではないのである。ずっと固定されていたショットがいきなり切り替わる瞬間の驚き、ショットのなかに捉えられた人物や光線の動き、画面の外から聴こえてくる声や物音の響き、すなわち映画であるということを、より効果的にするために、彼らの映画づくりのルールはあるのだということを再確認する。しかし、やはりブレヒトは、どういじくってもブレヒトである。撮影はウィリアム・リュプチャンスキで、その連想から『美しき諍い女』のディスクも出してきて、最初の三〇分ほど(《美しき諍い女》という画題が飛び出してくるあたりまで)をみる。エマニュエル・ベアールは出てくると、いきなりポラロイドを構えて写真を撮るのだった。
  • 「しま」が真夜中に鰹節をねだって、階段の下までやってきて、よく徹る声で鳴く(ので、けっきょくせしめられる)。風呂に入ってから眠る。

  • いつのころからか仕事に行く前に風呂に入るようになっていたのだが、昨夜は柚子のすすめに従って寝る前に風呂に入った。すると、朝がすごく楽だった。これからそうしようと思う。
  • ティモシー・モートンの『自然なきエコロジー』も読んでいる。ところどころ「おっ」という箇所もあるが*1、たとえばこれが佐々木敦なら扱う音楽がもっと面白くて、この半分のページで書いちゃうだろうなと思うと、ちょっと読むのがしんどい。
  • 帰宅して、パスタを茹でて、柚子のつくってくれたミートソースで食べる。明日休みだからいいやと、けっきょく風呂には入らずに、しかも須田亜香里のひとり喋りの『1×1は1じゃないよ!』さえ聴かずに(radikoのプレミアム会員になったゆえの油断)居間でそのまま寝てしまう。

*1:モンタージュは、ちゃんと批評的なものになるには、内容を枠と並置しなくてはならない。なぜか。形式と主体の位置を混合させることなくただ内容を並列するだけでは、事物をそのままで放置することになるからだ。(…)項目をリストへと追加していってもなにをしたことにもならない。「内容」のもっとも極端な例は、書くことにある、なんとかしようともがく性質である。「枠」のもっとも極端な例は、事物をそもそも意味のあるものにするイデオロギーの格子である。アンビエントな藝術は、書くこととイデオロギーの格子をこうして(弁証法的に)並置することへと向かう。枠のない客体を提示するか(たとえばギャラリーで「材料」を積み上げる)もしくは客体のない枠(白いキャンバス、空虚な枠など)を提示することで、アンビエントな藝術は内容と枠の溝を問う。内容と枠を並置するには、それらのあいだにある溝を保たなくてはならない。」(278頁)。

  • 百田某の史書もどきを「私たちが批判しているのは歴史修正主義の本だからではなくパクリ本だから」というひとが少なくないが、パクリ以前にやっぱりダメだろう。
  • 仕事始め。帰宅して柚子と晩御飯を食べながら、深作欣二の『日本暴力団 組長』をみる。『仁義なき戦い』より以前の、『黒蜥蜴』を撮ったすぐあと。とてもアンバランスな政治映画で、三島というよりむしろ大江健三郎の「セヴンティーン」などをふと思い出す。もちろん『奔馬』の「日輪は瞼の裏に赫奕と昇った」というのを思い出してもよいのだろうが、サングラスの向こうの鶴田浩二の双眸は、その死後も、戸惑ったように見開かれている。

  • 『シネマの記憶装置』のいちばん後ろに収められているゴダールについての幾つかの批評文を風呂のなかで読みながら、「映画は、あらゆる瞬間において目に触れるものとしてはなかったし、また今後もわれわれの瞳にその姿をさらすことを拒み、まさしくその不可視性によってわれわれを犯し続けてゆき、だから、短くはあっても、すでに充分な質と量を誇りうるその歴史は、われわれの背後に豊かな財産として堆積された不動の山ではなく、かえって現在に注ぐ視線を盲目にする危険な光源としてしか感知しえず、見る者の精神と肉体をゆるやかにむしばみ、生への執着を徐々に風化させ、明日への意志を沮喪させるものでしかないという事実」と書いた蓮實重彦は、今もまだいるのだろうか(蓮實重彦の批評文を、ヌーヴェル・ヴァーグアメリカ映画と同一視することなく、まるで蓮實が論じた映画など一本も眼にしたことがないもののように批評することが必要なのではないか?)。
  • 西武の広告には何の趣味のよさもウイットも感じないが、「英語でクリームパイがどういう意味だか知ってるのか?!」と噴き上がっている連中にはさすがに失笑を禁じ得ない(というか、ちょっと落ち着けよと云ってやりたい)。パイ投げを知らないのだろうか? 
  • ドン・デリーロの『オメガ・ポイント』をたらたらと読み始める。1936年生まれのドン・デリーロ大江健三郎のひとつ下、長嶋茂雄やハンス・ハーケやフランク・ステラ若松孝二さいとう・たかをと同い年。
  • シャッターを押すこととアイドルを推すことは、でもやっぱり違っていて、それは遂に撮りためたデータをプリントしてしまったときに違ってくるのだろう。単なる行為の突出というのではなく、手許に、ぎょっとするような厚みの、おが屑ならぬカメラ屑のようなものとしてのプリントの束が積み重なる。このゴミのような物質をどう処理するか(展示するの?写真集つくるの?箱に入れてしまっておくの?)ということを考え始めると、やはりそれは批評のようなものになってくるだろう。しかし、これも行為の突出のようなものになる可能性はゼロではない。

  • 昼前に起きて、柚子と雑煮を食べ、きのうのおせちの続きを食べる。美味。風呂に入って本を読む。それなりに晴れているので、洗濯機を廻す。プロ・アルテQのハイドンのディスクを、後ろから順番に聴いている。ベランダで洗濯物を干していると「しま」が窓のきわまでやってくるが、寒いからなのか、けっきょく出てこないで、戻ってゆく。夕方、実家に年始の挨拶に行く。祖母を両親が介護している姿をみながら、これは大変だ……と思う。彼らにはユーモアがあるが、じぶんにはこれが持てるだろうかと内心呻る。帰宅して、正月特番の『オカムラ調査隊』をみる。ワイプの須田亜香里がずっと可愛い。

  • NHKの朝の元旦特番で、振袖を着た須田亜香里夏木マリと並んでひな壇前列の真ん中に坐っている。風呂に入って本を読んでいる。
  • 数年前、『アラザル』の増刊号だかどこかに書いた雑文で、じぶんが写真を撮りはじめたのは、古本屋がどんどんなくなっていったこととサケカスになったことと通底している気がすると書いたけれど、それは、行為の突出ということかもしれないと思う。何かのために本を集めるというより、好きな本を集めたかったからだし、批評するときも、情況を変えるためとかいうより、批評したくなる何かとの遭遇などがあり、書きたくなって、結果として批評している。写真も何かのためではなく撮るために撮っているし、サケカスになったのも、推しと遭遇してしまったので推しているのだ。シャッターを押すのもアイドルを推すのもおなじなのかもしれない。
  • 昨日からAKBだの何だのずっとTVでみていたのだから最初に聴くCDなんて何でもいいじゃないかと思いながらも、けっきょくあれこれ迷って、やはりグールドの弾くハイドンの《42番》が頭に入ってるディスクを選ぶ。暖房で背中を温めながら、椅子に坐ったまま、ぼーっと《42番》を聴いて、もういちど《42番》の二楽章だけを聴いて、それから続けて、《48番》と《49番》も、ただ、ぼーっと聴く。
  • 出かけようと思うが寒くて動けず。チームSの《凍える前に》を繰り返し聴いている。佳曲。かなり安くなっているのをみつけて年末に注文した黒沢清の『ダゲレオタイプの女』(ものすごく好き。いずれ何か書きたい)のBDが届く。プロ・アルテQのハイドンのボックスを《73番》から聴き始める。三〇年代の演奏だが、モノラルの録音はきれいだし、何より音楽がよく弾んで楽しい。
  • 今年は真面目に写真と取り組もう(展示とか真剣に考えよう)。映画もまた数をみるようにしよう。批評も、もちろん継続して書いていこう。ドン・デリーロを再読しよう。糞みたいなことで神経をすり減らすのはやめよう(他人は他人でしかないし、顧慮はそれを、受容することを拒むものに対しては、こちらが疲弊するのみ。ただの無駄)。
  • 夜中にようやく外に出る。隣町の貸ヴィデオ屋へ、借りていたディスクを返却しにゆく。帰りに、スーパーで柚子に頼まれていた牛乳を買い、コンビニで振込を済ませる。
  • 元旦からまたテロ。二十歳そこそこの青年が原宿で、ほぼ同世代の青年たちを無差別にクルマで轢いたそうだ。責任能力うんぬんではなく、こういうかたちでの噴き出しが起る情況そのものが悲惨すぎる。

  • ラディアンの『オン・ダーク・サイレント・オフ』とか聴きながら蒲団で本を読んでいる。柚子にカレンダーを買うのを頼まれていたので三宮のセンター街のジュンク堂まで出る。ドン・デリーロの『オメガ・ポイント』の邦訳が遂に出ていて一緒に購入する(『早稲田文学』で連載されていた都甲幸治による『ホワイト・ノイズ』の新訳も水声社から出るらしく嬉しいが、とにかく早く出てほしいものだと思う。ピンチョンもいいがデリーロの邦訳全集がほしいし、絶版になっているものも復刊されないだろうか)。センタープラザを降りるとちょうど「グリル・ピラミッド」が目の前にあり、確かカタカミ君が面白いって云ってたなと思いだして、割引だったのでカツカレーを食べてみる。それから実家の近所の散髪屋に行き、髪を切る。実家に寄ると帰りが遅くなるので、そのまま戻る。駅前のコンビニで、取り寄せていたプロ・アルテ弦楽四重奏団ハイドンの選集と、リバイバル公演の《制服の芽》と《手つな》がまるごと入っている『Stand by you』のタイプAとBを引き取り、スーパーでお菓子とコーラを買って、帰宅する。スーパーのレジで、私の前に並んでいたおっさんは、カゴのなかに、小さな惣菜のパックをひとつかふたつと、どん兵衛の天ぷらそばを入れていて、「わかば」もひと箱買っていった。このおっさんにも、大晦日が訪れているのだと、ふと思う。
  • 帰ると「紅白歌合戦」でちょうど刀剣男子が出ていて槍のひともいて、星野源の《SUN》はやっぱりいい曲だなあと思ったりしながら、TVの前と部屋を往復する。今回はAKBはBNKと一緒に出ていて《恋チュン》をやり、須田亜香里はきれいな衣裳で、にこにこと踊っていて、そこそこ画面にも映る。それだけでとても幸せな気分になる。柚子がつくってくれた、鴨とネギの年越しそばを食べる。「紅白」が終わったら「CDTV」にチャンネルを替えて、柚子と「しま」にも新年の挨拶をする。もう眠くなってくるが『挑発する写真史』を読みながら、またAKBが出てくるのを待つ。久しぶりに《センチメンタルトレイン》で、だったら、もうちょっと二位様を映してくれと思わないでもないが、やっぱり須田さんの穏やかな笑顔が見事で、良い年明け。