■
- この頃ときどき、部屋を片付けようと思う。服を棄て、古いヴィデオテープを棄て、もうそれについて書きもせず参照もせず読みもしないだろう本を棄てようと思う。しかし、数日おきに古本屋から本が届く。古いヌーヴェル・クリティックの本だったり、写真集だったり(正方形の段ボールの箱で、フィリップ=ロルカ・ディコルシアの『THOUSAND』が届いたら、本当に真っ白で四角い塊みたいな本だった。柚子に見せると、「また重そうな本ね」)、ホロコーストについての本や、俄かに興味が沸いたジョイスの『ユリシーズ』がらみの本だったり、ごくまれに、ちょっと興味のある経済とか社会の本なども、ずるずると届く。本とCDの隙間に坐って、これを書いている。こんなもの書かずに、読めばいいのに。薄っぺらい本ならすぐ読めるだろうと、イワン・クラステフのCOVID-19についてのエッセイを読む。すると、フランク・ナイトの『危険・不確実性および利潤』についての記述があり、とても読みたく(本が欲しく)なって検索すると、何ともタイミングよく、来月『リスク、不確実性、利潤』というタイトルで新訳が出ることが判る。タワーレコードのクーポンがあったのですぐに注文する。
- ブニュエルの『皆殺しの天使』にもそう言えばマイクがばっちり映りこんでいたなと思いつつ、蓮實重彦の『webちくま』のエッセイがつまらなくて困る。厄介でふてぶてしい爺ィをやりたいんだろうが、「もうお爺ちゃんたらほんとお茶目」って言ってほしがっているのがあからさますぎる。そのあからさますぎるところが戦略なんだと言われたら、ハスミンお好きなんですねと返すしかない。尤も、「無意識であろうが意識的であろうが、男性が蔑視されることには何の心の痛みも感じることがない」なんてフレーズには痺れる私も、それなりにお好きなんだろうけれども。
■
- ペーター・ハントケの『幸せではないが、もういい』を読み終える。面白いので、もういちど頭から読み始める。最近少しずつ批評や論文以外のもの、戯曲だとか小説を読んでいる。映画とおなじで、面白かったものは二度読むと、いろんなことが見えてくる(二度読みたくなるものは少ない)。最初に読んだときに、いかに多くのものを見落としていたかが再読のときに判って、とても面白い。そして、『幸せではないが、もういい』は、たぶん空白の小説である。空白というのは、何かと何かの間にできるものだ。この間隔が広がったり縮んだりするのが、この小説の運動である。息子が母の死の報に接して、飛行機や自動車に乗って帰ってくることや、母の村のコミュニティでのつきあいのあれこれ、母と父の喧嘩の様子など、総てがこの空白のつめ方のヴァリエーションである。
- 空白を作る足場である、何かと何かが見えなくなってしまって、「もうずっと前から単なる宙を前進していたことに気づく、アニメーションのキャラクターのように……」なっていることを、母の死について書くことで、一片のエクリチュールとして蚕のように吐き出したのが、この「物語」の書き手である息子であるが、もちろんそれはそれ以上の確固たる安心や足場を彼に与えるものではない。しかし、それは、それ以下のものでもない。糸屑のようなものが握りしめられている。