• dp2 quattroの後ろダイヤルの蓋が外れたので、ゴリラを買ってきて、びくびくしながら、ちょんちょんとダイヤルの上に接着剤を乗せる。ダイヤルの凸と蓋の凹をじっと睨んで位置を確認して、蓋をはめてから、親指の腹で、上からぐーっと押さえる。恐る恐るダイヤルを回してみると、カチカチと動いた。

  • ベンヤミン著作集の『ブレヒト』を読んでいる。「叙事的演劇とはなにか(初稿)」に、「さまざまな機関と結合するためには、つまるところ本そのものになることだ」という言葉を発見して、とても嬉しくなる。山口裕之編訳の『メディア・芸術論集』にも「叙事的演劇とは何か」が入っていたのを思い出して、そちらも読み始める。

  • ベンヤミン著作集の『ブレヒト』を読んでいる。「複製技術」と読み合わせることでより重要性を増すが、しかしその真価はまだまだ埋もれていると私には思われる、「叙事的演劇とはなにか」の中に、「叙事的演劇は、映画フィルムの映像のように、ワン・ショットずつ進行する。その基本形式は、互いに判然と異なるシチュエーションとシチュエーションとの衝突による、ショックという形式である」とあって、膝を打つ。やはり、「ショックとは何か」なのである。

  • ワーグナー・シュンポシオン2022』に掲載の夏田昌和の「R・ワーグナーの音楽と現代の音楽創造」を読む。「《ラインの黄金》序奏の冒頭で鳴らされ始める低音域のE♭とB♭による完全五度は、この先もコントラバス、バス・クラリネット、チューバと三本のトロンボーンによって序奏の終わりに至るまで休みなく保持される。それはこの音楽を支える土台としての二重のオルゲルプンクトであり、掻き鳴らされるドローン弦であり、この先の全ての音を生み出す巨大なサウンド・ジェネレーターでもある」という分析の言葉のかっこよさに痺れる。

  • 止まらなくなって『パディントンの一周年記念』も読んでいる。「それからしばらくあと、こぐ手を休めて、ボートがゆらゆら川下に流れるのにまかせながら、ブラウンさんがいいました。「きょうは、わたしたちが川ですごした日のうちで、いちばんおだやかな日だったというわけにゃいかんだろうが、しかし、いちばんいい日だったってことは、たしかだね。」という「テームズ川へのピクニック」や、「「わたしにいわせてもらえば、あべこべだね。」とブラウンさんがいいました。「パディントンが、ぼくたちを所有しているんだ。」」という「パディントンの映画見物」も、そして「ランドレットでの災難」もとても楽しい。

  • シネ・リーブル神戸でマチェイ・バルチェフスキの『アウシュヴィッツのチャンピオン』を見る。よくできている。でも、ユダヤ抜きのホロコースト映画という気もしないではない。スピルバーグの慎ましさというようなことを、ぼんやりと考えたりもする。

  • マイケル・ボンドの『パディントンのクリスマス』も読み始める。写真屋さんの店先に飾られるほどの「非常に珍しい型の初期のカメラ」でブラウンさん一家を撮る「家族写真」で、パディントンが撮る写真は「少しぼやけていて、ふちのほうに数か所、前足のあとがついてい」るのだが、それは

「はっきり、きれいにとれてはいるんですよ――たしかに、みなさんがた全部うつっていますがね――しかし、ところどころ、霧がかかったようになってるんですよ。それに、このポツポツと明るい部分ですね――お月さまの光みたいに――これがどうも変ですなあ!」
 パディントンは、写真屋さんの手から感光板をうけとって、ていねいに調べました。そして、だいぶたってからいいました。
「これ、ぼくがおふとんの下で、懐中電燈をつけたところだと思うよ。」

  • ほかにもガイ・フォークス・ナイトの珍騒動「パディントンとたき火」(「二人で考えれば、問題は半分だよ、ブラウンのだんな。」と、グルーバーさんはよくいいました。「たしかに、おまえさんがこの近所に住むようになってから、わしは、調べもののたねに不自由しなくなったよ。」)や、「クマであるということは、いいことでした。とりわけ、パディントンという名のクマであることは」と締め括られる「クリスマス」など、本当に素晴らしい短篇ばかり。ペギー・フォートナムの挿絵も冴えわたっている。特に「家族写真」で黒いフードを被って三脚つきのカメラを操作するパディントンを描いた絵がいい。