• 先日JLGの『軽蔑』を映画館で見て、とても感心したので、アラン・ベルガラの『六〇年代ゴダール』を図書館から借りてきて、『軽蔑』の章を読む。大変面白いことが幾つも書いてある。

彼は、撮影時に最終的につかうことのできる材料(俳優、舞台背景、天候など)がどのようなものか、またそれらと彼が前もって想像しえたものとの間にどのようなずれが生じてしまっているかは大して問題にせず――彼から見れば、どの素材もみなほかの素材と等価であるがゆえに――思い残すことなく、すぐにつかえるものをつかって映画をつくるのである。ピカソもやはり、手当たりしだいになんでもつかってかいたものであり、その作品はもっぱら、それらの素材の材質それ自体から、それらの素材の抵抗線および力線から、それらの素材が彼に吹きこんだ欲求から出発して構想され、練りあげられたものなのである。シャルル・ビッチュがこのことを舞台背景に関して裏付けている。ゴダールはとりわけ舞台背景をあらかじめ訪れすぎることのないようにし、安心して彼に舞台背景を見つけさせておき(ビッチュは撮影の際の制約にもゴダールの好みにもよく通じていた)、ついで舞台背景の具体的現実から出発して場面を組み立て、それを撮影したのである。

ゴダールはたびたび、――この映画のために選ばれた色彩群を構成する――原色のペンキの缶を手にし、自分で物を、舞台背景の小さな部分を塗ったものだった。『軽蔑』の石膏でできた彫像は、古代史劇ものの舞台背景の部品としてつかわれていた、チネチッタの古代の彫像のストックのなかから見つけ出されたのだが、それに色を塗ったのは、彼自身である。

ゴダールはこの映画が封切られる少し前の六三年九月に、八〇~九〇年代の彼の映画の核心をなすことになる哲学的かつ形而上学的側面を予告しながら、この映画をこう分析している。《ぼくは『軽蔑』をまさに、この地上にだれもいなくなった場合の物語として考えている。かりに五人の生き残りがいるとして、その五人はなにをするだろうというわけだ。そして、神々の視線にとってかわった映画がかれらに近づいてゆく。それに神々というのは、いつももっぱら人間たちに近づこうとしたものなんだ。人間たちから遠く離れて死ぬほど退屈していたギリシャの神々は、しょっちゅう地上に降りてきて、人々に恋をしたり、人々に合流するか人々を招き寄せるかしたり、人々を守ったりしていた。これがすべての神々の、あるいはこう言った方がよければ「神」の特性なんだ。『軽蔑』は、自分自身から、世界から、現実から切り離された人間たちの物語だ。かれらは暗い部屋に閉じこめられているんだが、それでも、不器用ながらもう一度光を見つけ出そうとしているというわけだ》。

  • 昼までだらだらと眠る。重いと思ったら「しま」が私の上で寝ていた。寝返りを打とうとすると、「ぐるぅ」と鳴いて警告してくる。
  • 喉が少しイガイガするのとわずかに咳が出るので耳鼻咽喉科に行く。たまたまセミリタイアした先生の診察の日で、混んでいる。薬を出してもらう。
  • フェスティバル・ホールまで出て、大阪フィルハーモニー交響楽団定期演奏会を聴く。マーラーの《交響曲第十番》(クック版)で、指揮はエリアフ・インバル。第四楽章の終わりから第五楽章が特にすばらしかった。歌おうと歌い始めると激しく断ち切られる歌。「完全に消音された太鼓」をめぐるドラマ。
  • 帰宅してスパゲッティを茹でて食べる。

  • ここ数日ふと思い出すと頭の中で流れるヨジャグルの曲は何だろうと思ってライブラリのfromis_9とか聴いていると、いい曲が多いので、頭の中で鳴っているメロディが掻き消されてしまって、すぐに、これだったんじゃないかと思ってしまう。でもやっぱり何か違うなあと思って、もっと漁ってゆくと、今後こそ、かちっと嵌る曲があって、クォン・ウンビの《OFF》だった。
  • シネマ神戸でJLGの『軽蔑』を見る。しみじみといい映画だった。

  • ずっと天気が悪かったので溜まってしまった洗濯物を片づける。ところが粉石鹸が一回分しかない。とりあえず風呂に入りながら洗濯機を回す。風呂から出て、洗濯物を干して、自転車に乗って洗剤を駅前まで買いに行く。粉石鹸を二箱と、並べて置いてあった襟袖汚れ用の緑のウタマロ石鹸を買う。さっそく石鹸を使ってから、そのあとで洗濯機を回す。
  • 昼過ぎから、晴れているので写真を撮りながら出かける。古本屋と中古レコード屋を覗きながら、写真を撮る。陽が落ちてから、昨日オーバーホールが終ったと連絡があったので、元町まで腕時計を引き取りに行く。1960年7月に作られたことが裏蓋の刻印で判る。つまり、『青春残酷物語』と『太陽の墓場』の間だ。手巻なので、巻き方を店主に教わる。この小さくて薄いケースの中に入っている発条は30cm以上の長さがあるという。おっかなびっくり、竜頭を巻いて、少し戻し、巻いて、を繰り返す。やがて、かちっと抵抗がある。これで巻き切ったわけだ。さっそく腕につけて帰る。
  • 夕食のあと柚子が林檎を剥いてくれる。甘くておいしい。洗濯物を取り込む。ぱりっと乾いていて気持ちがいい。

  • 今日から封切りの『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』を仕事のあとに見られるのが判ってチケットを押える。久しぶりに、最前列のど真ん中の席を取った。今日はJLGへの弔いの焼香のようなものなのだから、スクリーンと私の間に、誰も入れずに見たかったのだ。静止画がずっと続く。絵画を眺めるように、画面にイリュージョンを求めてあちこちに眼を走らせる。やがて、画面の中の白いフレームはCanonの写真用紙の裏面であることが判る。これを支持体にイメージがコラージュされている。これは映画というよりは幻燈なのだろうか。しかし、サウンドトラックは盛んに動き続けている。無音ではない。スピーカーからは音がないという強い音がびりびりと鳴っており、映画館の中を震わせている。やがてベートーヴェン弦楽四重奏曲が、ショスタコーヴィチの《死者の歌》が耳を聾する。ロシア語の響き、それにフランス語で抗う女の声。パンデミックとロシアのウクライナ侵攻の蛮行の只中で、JLGは死んだのだった。『アワーミュージック』からの引用もある。眩いばかりに美しい静止画のショットもあった。サンローラン社のカネで作る映画の構想を語るJLGの声はもうすっかり老いて乾いている。アーレントの名前が出てくる。JLGの死後ほぼ一年後に始まって今も終わらないガザでのイスラエルの虐殺を想起せざるを得ない。愈々、JLGのグルーヴが身体の中に染み渡ってきた瞬間、ふっつりと「最後の映画」は終わる。「生者? 私のこころからの愛情を思い出にとめよ。死者? 神、彼らの魂を守り給え」(シャルル・プリニエ『偽旅券』)。パンフレットはまだ売っていなかった。
  • 雨は降っていないが夜はまた寒い。本屋がまだ開いている時間だったので立ち寄る。帰宅して柚子と晩御飯を食べて、眠る。

  • 夜は雨になる。駅を降りて借りた傘は、開くと幾つか穴が空いていたが、気にせず歩く。
  • 今日もなかなかひどいのが届いたamazonマケプレの業者バリューブックスは、「品質には十分注意して発送いたします」と書いているが、検品のクオリティがだだ下がりに下がっており、できれば使いたくない。同じ値段の業者がいたら必ずそちらを選ぶようにしている。坂本龍一の本なんかここから出してくれるなよ、と思う。

  • ずっと坐っていると、夕方にはヘルニアのせいで左足が痺れてくる。歩いているとましになるので、ちょっと中座して、フロアとフロアを繋ぐ階段をぐるぐると上がったり下りたりしている。監視カメラで誰かが見ていたら、まるで『十月』のケレンスキーのようだろうと思う。
  • 『国家とはなにか』に戻って続きを読んでいるのだが、appropriationを「盗用」とか「専有」とかではなく「我有化すること」と訳して使っているのはとてもいいと思う。