ティーレマン&ミュンヘン・フィル in 大阪

  • 洗濯やら風呂に入ったりして、姑の病院。『黒沢清の映画術』を読了。すごく面白かった。廣松渉を読み進める。哲学の議論のなかでは、認識論に、やはり最も興奮してしまう。
  • 姑の病院からの移動に手間取り、I嬢の作品が聞ける演奏会に向かうが、着いたら、まさに演奏がちょうど終わった瞬間だった。無念。作曲者であるI嬢の挨拶(大変シンプルで、素敵だった)だけを見て、そのままバタバタとシンフォニーホールへ。クリスティアンティーレマン指揮によるミュンヘン・フィルハーモニィ管弦楽団の演奏会。曲目は、リヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」と「死と変容」、ブラームスの「交響曲第一番」である。
  • 木管パート、めちゃめちゃ素晴らしい。「ドン・ファン」に於けるオーボエとホルンの掛け合いの妙なる美しさ。「死と変容」に於ける弦の合奏の呼吸がぴたりと合った感じと、それがあえかに、しかしふかぶかとゆるゆると延びてゆく響きが、堪らない。音楽を聴いているのが、もう気持ち良くて仕方がない、と云うのがぴったりくる演奏なのである。ちょっと独特な、ダイナミックで、時折は地を這うようなさまのティーレマンの指揮に、すっと、オケが応える。指揮者とオーケストラが、とても親密で、信頼しあっている幸せなさまが、随所で垣間見えた。
  • 休憩を挟んで、ブラームスの「交響曲第一番」。これまで、私はこの曲を、実演であれ録音であれ、時どき素敵な箇所もあるが、全体としては平板な音楽であると思っていたのだが、そんな印象が一変させられた。今夜、ティーレマンの作ってみせたのは、とてものびやかで、よく弾み、色彩感の溢れる、云うならばヴェルディのオペラのようなブラームスの「第一交響曲」だったのだ。音楽が展開されてゆくのに同調して、オケを照らすホールの天井からの照明が、その光線の濃淡を変化させているかのように、私の目に映ることがたびたびあった。もちろん、そんなことは行われていないのであるから、それはつまり聴取の体験が、私の視覚を激しく揺さぶっていたと云うことである。ティーレマンらしい、一瞬のタメ、静寂の配置なども、さすが力んだふうなあざとさはなく、しかし大変劇的な効果を生んでいた。酒でも呑んだみたいに、身体が火照る演奏であった。
  • 観衆の熱狂的な拍手に応えて再登場、指揮台の上へは、「どないや!!」てなふうに「ドシン!」と飛び上がるティーレマン。ええニイチャンである(笑)。アンコールは『ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲。まるで絹のようにつややかなワーグナー
  • ティーレマンの作る音楽の構えはがっしりとしていて大きいが、決して鈍重ではない。それは例えば、インターナショナリズムと云うよりはやはり寧ろ、徹底してドイツ的な職人の美学の発露であったミースの建築(例えば「バルセロナ・パビリオン」*1など)に似ているかも知れない。大満足の演奏であった。
  • ところで、私の席の前列におられた初老の御夫婦(?)。御夫君がたいそうな愛妻家らしく、たびたび、頭を寄せて奥さまに話し掛けられる。残念ながら、演奏中である。終演後、お声は案外、後ろに響きますよと申し上げると、白髪の紳士曰く、「愉しんでましてン」との由。思わず絶句。あーそうですかそうですか。わははははははははは。って、バカヤロ。高いカネを出して切符を買っているのは、ティーレマンの演奏を聴くためで、アンタの睦言を聞かされるためじゃない。それに、いい歳こいてるんだからさ、スマートにぱっと謝ってしまうぐらいの態度は身につけてようや。
  • クラシックの演奏会へ赴かれる方よ、どうぞ、これだけは守って欲しい。咳やクシャミの一発や二発で怒る奴なんていませんって。なに、簡単なことですよ。
  • 演奏中は、喋るな!
  • しかし、こんなことが瑕瑾にもならないほど、今夜の演奏は本当に素晴らしかった。ティーレマンと、チューリッヒ歌劇場の『ばらの騎士』のふたつを聴けただけでも、今年は素敵な年だったと云える。どちらもオペラを大得意とする指揮者によって紡ぎ出された音楽である。
  • 高架下の本屋に寄り、マクドナルドで夕食を摂り、全身に満ちるキラキラと弾む音楽に浮かされながら、帰宅する。