帝国の終わりから。

  • 映画を見に出るつもりだったが、やっぱり結局家から出ないで、明日は法事なので、柚子と蒲団を干したり、掃除をしたりする。
  • A・ビーヴァーの『ベルリン陥落1945』を読み続けているが、出てくるエピソードのひとつひとつが酷すぎて、たぶんそれを読む私の顔の頬の引き攣りは、笑顔のそれのようになっているに違いない。
  • 書籍と云うものに私はフェティッシュな欲望を抱いているのは紛れもないが、或る方からのメールを拝読して、書籍を作り、販売すると云うことは、もうすっかり大規模な産業としては立ち行かなくなっている、少なくとも方向転換が決定的に必要な時期に来ているのだと、苦い悲嘆と共に、痛感する。その数箇月後にソ連軍の猛攻撃で壊滅することになる、1945年初頭のベルリンのくらしを描いて、A・ビーヴァーは、「まもなく紙くず同然になりかねないとうすうす感じて、人びとのカネづかいが荒くなった」と書いているが、殆どそれと同様の事態が業界では起っているのだと知る。まともな本を作り、まともな時間をかけて、まともな商売をする、と云うのをすっかり放棄して、みずからの頸をぐぃぐぃと絞めているようなのだ。
  • 以前から、大きな書店の若い店員がレジで、本を「商品」と云う言葉で表現するのが、ずっと気になってきた。最初はブックファーストだけだったが、この頃はジュンク堂旭屋書店でも、「お先に商品お渡しします」と云う店員が激増している。コンビニやレンタルヴィデオ屋などで接客を、その態度や言葉遣いを始めて経験して、其処で摂取したものを、そのまま本屋のレジに持ち込んでいるのだろうし、それが気になるのは、私が本が好きだから、なのだと思っていた。だがやっぱり、これにはもっと、根深いものがあると思うのだ。成るほど、本も商品である。しかし、本が売れなくなっているのは、業界そのものが、本を余りにも商品として扱いすぎたためではないか。本を売るには、立ち読みや他人のブログの要約では、全く不十分な摂取しかできないものを作ること。そして、本に、たとえそれがフェイクであるとしても、霊性を帯びさせること。それらができなければ、どんな大きな出版社も、どんな大きな書店も、本に然るべき態度で接しなかったと云うことで、程なく廃壊することになる。
  • デ・サバタの『トリスタンとイゾルデ』を聴いている。