青年団『東京ノート』をみる

  • まともな勤め人の諸氏には痛罵されようが、十時に起きるのがとても大変なのである。けさは結局やはり五時に寝たからである。テープ起こしは、ようやく三時間を越えたが、昨晩はふと思い立って、大半の時間をYouTubeモーニング娘。を聴いて過ごしてしまったのだった。
  • 起きてからもずっと、どうにも頭に靄がかかったようなままなので、江藤淳の『作家は行動する』を読みながら風呂に入る。ところで、私が吉本隆明が苦手なのは、やはりあの脅迫してくる文なのだ。総ての広告は、とどのつまり脅迫なので(いちばん典型的なのは「時代に遅れるぞ」というアレだ)、糸井重里吉本隆明を愛しているのは、とてもよく判る。「ほぼ日」だって、その本質は昔の糸井の広告の仕事と、些かも変わっていないと思う(だから嫌いなのだ)。
  • 正午、ビニール傘を持って家を出ると、もう雨はやんでいる。道の向こう側で、一匹の三毛猫が私を睨み据えたまま、フリーズしている。
  • 梅田に出て、商店街の古本屋を覗いてから、駆け足で国立国際美術館。以前から、それが近未来の架空の戦争を描いていると云うことで、ずっとみたかった平田オリザ青年団の『東京ノート』をみる。
  • まず、客席の前方に置かれたベンチには既に男が坐っている。やがて男は立ち上がり、階段を昇ってゆく。しばらくすると、階段を女がおりてくる。こちらの意識は、彼女を俳優だろうか?と疑う。ところが、彼女は客席についてしまう(このとき、係員が誘導したのだが、その後も階段をひとが降りてくるたび、総て誘導してしまったのが残念だった。なるほどそれが係員の仕事なのかも知れない。しかしそれでは、誰が俳優ではないかが、すっかり判ってしまうではないか。この美術館では、係員の仕事熱心ぶり(!?)が、作品をみるとき邪魔だなと感じるときが何度かあった。いや、もしかすると、この頃の大きな美術館総て、なのかも知れない。別にナイフでカンヴァス裂いたりしないから、もう少し放っておいて欲しい)。
  • 誰が役者で誰が客なのかさっぱり判らない状態のまま劇が始まるのは、この頃では特段すべきことでもないかも知れないが、その洗練ぶり(と云うと変な具合だが、つまり、それほど区別がつかなかったと云うことなのだ)は大変なものだった。そしてそれは、俳優たちが話す言葉に就いてもそうで、それらはきわめてよく練られていて、云うならば非常に立派な演劇の言葉なのだが、それが俳優たちの身体を通して発話され、私たちの耳を震わせ、こちらの裡に入り込んでくるときには、いわゆる作り物めいた演劇臭がすっかりないのである。それらの言葉が既に、ひとつの現実をかたち作っているから、と云うことなのだろう。
  • 俳優たちが演技をするベンチの真上には、アレクサンダー・カルダーの真っ赤なモビール「ロンドン」がぶらさがっている。これまで、いちども良いと思ったことはなかったが、俳優たちの顔の上を、その影がぼんやりと、ゆっくりと推移してゆくさまは、大変美しいものだった。そして云うまでもなくその美しさは、最初からカルダーの作品に内包されていたものではなく、この演劇によって、作り出されたものである。
  • 芝居が終わり(最後の、ふたりの女優のお辞儀のかたちのしなやかさ。もちろんそれは、美しさを含みこんでいるひとつのかたちである)、来たときと同じように慌てて、まっすぐ駅まで戻り、アルバイトに。その前に、さすがに腹が減ったので、マクドナルドでビッグマックセットをぱぱっぱっと喰った。