『デコトラ・ギャル奈美』をみる

  • 昼から十三へ『ゴダール・ソシアリスム』をみにゆくつもりだったが、ばたばたしているうちに時間切れ。DVDで、城定秀夫(去年はじめてみた彼の映画『懺悔 松岡真知子の秘密』は傑作だった)の『デコトラ・ギャル奈美』をみる。
  • ふと、坂口安吾の「日本文化私観」の最後に出てくる戦闘機って何だったっけ?と思って調べてみたら、ポリカルポフだった*1。これは支那事変で国民党軍のを鹵獲した機体なのだろうか。或いは、ノモンハン事件の折か? 
  • 「問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ」と書き、小菅刑務所とドライアイスの工場、帝国海軍の駆逐艦ソ連の戦闘機を並べて、それらを機能性の極致(「なければならぬ物」)に於いて礼賛する安吾は、きわめてインターナショナルなモダニスト(「彼等は、その精神に於て、余りにも欲が深すぎ、豪奢でありすぎ、貴族的でありすぎたのだ。即ち、画室や寺が彼等に無意味なのではなく、その絶対のものが有り得ないという立場から、中途半端を排撃し、無きに如かざるの清潔を選んだのだ」)であり、それは大東亜戦争遂行中の、戦時下の軍事テクノクラートの考え方と同じである(曰く、「バラックで、結構だ」。実際、井上章一の昭和初期の建築史研究などを読めば、戦時下の日本の公的な建築はバラックばかりだったのが判る)。このあたり、「日本文化私観」に於ける安吾は、反時局的な作家であるどころか、きわめてぴったりと時局的である。
  • しかし、このエッセイのなかで最も魅力的なのは、そんな聞き飽きた演説ではなく、京都の小さな神社のことや、薄汚い芝居小屋でみた、あれこれの旅回りの一座の素描などである。或いは、やっぱり、この四つに小分けされたエッセイのなかで最も短い、三つめの「家に就て」なのである。「「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。(……)叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう。」
  • 「日本文化私観」が発表されたのは昭和17年の二月だそうで、云うまでもなく、その前年の十二月から大東亜戦争が始まっている。「この悔いや悲しさから逃れるためには、要するに、帰らなければいいのである。そうして、いつも、前進すればいい。」