- 眼が醒めると、枕元に「しま」がいないかを探すのが癖になっていたことが、今朝はよく判った。死んだら総てがおしまいだと思ってきたが、そうだと言いたくないのである。死んだらおしまいなのではなくて、付き合い方が変わるだけなのではないか。それは「しま」だけではなくて、決定的に仲違したあの人やもうおそらく二度と行くことのないあの場所でも同じなのではないか。何も終わらないし何も消えない。ただ付き合い方が変わるのだ。こんな当たり前のことさえ「しま」が亡くならなければ判らなかったのかと驚くが、仕方がない。柚子が朝ごはんを作ってくれたのを食べる。
- 柚子からLINEで「しま」が亡くなっていたのを知らされたとき、「よかった」と思った。5kgあった体重が病院に行って量るたびにどんどん減ってついには2kgを切って、体調が思わしくなくなってからも2本はぺろりと平らげていた「ちゅーる」も私の指先ぐらいしかもう食べられないし水道から水も飲めない。しかしそれでも生きていてほしいと思ったし、どこかで生きると思ってもいたのだが、いったい「しま」はどうなるんだろうと困惑していたのも事実。困惑とは死を意識することからの逃避だったのだろうが、だから、「しま」が私の整えたラグの上で亡くなっていたと知らされたとき、本当に「よかった」と思ったのだ。最期を一緒にいてやれなかったのは謝るけれど、いたら耐えられなかったかもしれない。どうか許してほしい。
- 部屋で椅子をに引くとき、ちょっと後ろの床を気にするのは、「しま」が寝そべっていることが多かったからだ。家の中で私が動くというのは、「しま」を探しているのとほぼ同義であったのが判った。「しま」もまた、私や柚子を探して、家の中を動いていたんだろう。私たちがふたりとも働きに出るようになってから、「しま」はグルーミングがひどくなった。環境が変わって、不安だったんだろう。いつの間にかそれは収まったが、彼女の人生の中では、この家の中でひとりで過ごした時間のほうが長かったかもしれない。私たちの気配が家のそこここに残っており、幾分かは「しま」を慰めていたことを祈るばかりだ。
- 天気予報を見る限り、もう雨は大丈夫そうなので、洗濯物を干してから出かける。昨日、「しま」を火葬した坂の下の公園までの道を、写真を撮りながら歩いてみた。昨日は小雨まじりの曇天だったが、今日は晴れている。そのあとは新開地の古本屋と、元町まで出て駅前の「りずむぼっくす」を覗いて、スーパーでパンを買おうとするが全部売り切れていたので、コンビニでロールパンをひと袋買って帰る。